秀頼も幸村も大助も敵中突破!?薩摩伝・真田丸の地を巡る

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秀頼も幸村も大助も敵中突破!?薩摩伝・真田丸の地を巡る

秀頼も幸村も大助も敵中突破!?薩摩伝・真田丸の地を巡る

更新日:2016/08/10 14:32

六三四のプロフィール写真 六三四 日本旅のペンクラブ会員、4つ星温泉ソムリエ、温泉フリーライター

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて退路を断たれた島津義弘公が敵の真っ只中に突撃し薩摩に引き返した敵中突破。鬼島津の異名を持つ義弘公と勇猛な薩摩の軍勢を象徴する退却作戦でした。その15年後、慶長20年(1615年)大坂夏の陣にて真田幸村と子の大助は豊臣秀頼公を守り、まさに敵中を突破し薩摩へ落ち延びたという伝説があります。今回は鹿児島に残る幸村らの足跡を薩摩伝・真田丸と題してご紹介します。

大酒飲みの秀頼公を「谿山の酔人(たにやまのよくろ)」と呼んでいた!

大酒飲みの秀頼公を「谿山の酔人(たにやまのよくろ)」と呼んでいた!

写真:六三四

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大坂落城後から京童が歌っていたとされる歌に次のようなものがあります。「花の様なる秀頼様を鬼のやうなる真田がつれて退きものいたよ加護島へ」。伝秀頼公由緒地と書かれた石柱と豊臣秀頼の墓と伝えられてきた宝塔。これは鹿児島市の南西部にある谷山に現在も残るものです。

この谷山には昔から語り継がれてきた秀頼伝説があります。秀頼公の身長は6尺(約180cm)を超え、たいそう酒が好きだったそうです。大男が町に出ては酒を飲み支払いもせず店を出る。自分で店に行き買い物などした事が恐らくなかったであろう秀頼公ならではのユニークなエピソードです。さらに面白いのは無銭飲食を谷山では「谷山犬(いん)の喰逃げ」といい、この言葉は秀頼公の無銭飲食から生まれたものだとする説もあるそうです。大きな男が大酒を飲み払いもしない。谷山では秀頼公の事を「谿山の酔人」と呼んでいたと伝えられています。

温暖な南九州市頴娃町の奇妙な地名「雪丸」

温暖な南九州市頴娃町の奇妙な地名「雪丸」

写真:六三四

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鹿児島県薩摩半島の南部にある南九州市頴娃(えい)町。一年を通して温暖な気候で鹿児島を代表するお茶の生産地でもあります。その暖かい頴娃町のある地域の名前が真田幸村に由来すると言われるのが雪丸(ゆきまる)集落。雪など滅多なことでは降らない地域の雪の文字に幸村の関わりを感じざるを得ません。

薩摩落ちした幸村は谷山で秀頼公主従と別れ雪丸地区に移り住みます。雪丸には幸村が山伏修行をして身を潜めていた「幸村山伏伝説」や山伏修行の際にのどを潤した湧き水と伝えられる「真田の秘水伝説」などユーモア溢れる言い伝えや歴史スポットが残っています。

幸村の墓に置かれている丸い小石に隠された秘密とは?

幸村の墓に置かれている丸い小石に隠された秘密とは?

写真:六三四

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その生涯を雪丸で終えたと伝えられる真田幸村。雪丸山中の幸村の墓に置かれた丸い小石にはこんな逸話があります。

幸村には身の回りの世話をしてくれる若い百姓の娘がいました。遠くて近くは男女の仲と言われますがその娘は幸村の子を身籠ります。しかし幸村は追われる身であり娘とお腹の子供を守るため海の近くにある大川(南九州市頴娃町別府)という村に娘を嫁がせたそうです。のちに真田の2文字の間に江という字を挟んだ真江田という姓を名乗る男子を娘は産みます。幸村が亡くなった後、娘と子は海より丸い石を拾っては墓参りに訪れ、お賽銭代わりに小石を置き幸村を偲んだそうです。

幸村の墓へ続く坂道は「とんどん(殿どん)坂」と呼ばれ、子供たちは親から坂の先にたいそう偉い方の墓があるから近づかないようにと言い聞かされてきたという雪丸地区。現在は大河ドラマの影響もあってか真田幸村ゆかりの地として全国から多くの幸村ファンが訪れています。

大隅の錦江町にもあった!幸村・大助親子薩摩落ち伝説!

大隅の錦江町にもあった!幸村・大助親子薩摩落ち伝説!

写真:六三四

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前段で幸村の墓は南九州市頴娃町雪丸にあったと述べましたが、実は鹿児島にはもう一カ所幸村の墓と呼ばれるものがあります。それが大隅半島の錦江町城元にある真田稲荷神社跡。落司(おとし)集落の墓地公園の片隅にひっそりと佇む一基の祠と二基の墓石らしい石柱が真田幸村、大助父子の墓。錦江町内でもあまり知られていない特別な場所のようです。

たまたま公園墓地にお墓参りに来られていた方に話しを伺うと「誰の墓かは知らなかったが小さいころからここの前を通る時は頭を下げて通れと教わった」。以前あった鳥居位置からお墓らしき石柱までの参道はきれいに掃除がなされ、この日は木の葉一枚すら落ちておらず、今もなお落司集落の方々に大切に供養されているのが伝わってきます。

また落司集落の遊喜浦(ゆきのうら・ゆきうら)と呼ばれる地域の名称は真田幸村に由来する説もあり、家紋に六文銭を掲げる真田一族の末裔もこの地にいるとのこと。幸村との関わりを感じざるを得ません。

豊臣秀頼公、真田幸村、大助、その他に豊臣家の重臣木村重成、元黒田家家臣後藤又兵衛なども落ち延びてきたとする薩摩落ち伝説。あくまで伝説の域を出る事はありませんが豊臣家ゆかりの人間が鹿児島に落ち、鹿児島で亡くなり、その墓が今でも地域に方々に大事にされていることはこれから先の世代に伝え、風習は地域の方にずっと守ってもらいたいと考えます。

薩摩伝・真田丸の地を巡るおわりに

鹿児島市の「伝秀頼公由緒地」は住宅の密集する谷山地域で由緒地近くの道路は車1台分の幅しかありません。また由緒地は一般住宅敷地内にありますので近隣の駐車場に停めてご訪問下さい。

「伝真田幸村墓」は南九州市頴娃町牧ノ内雪丸地区を目指して下さい。雪丸地域には案内看板が多くあります。墓入口駐車場からは徒歩で山道を約500m程お進みください。途中多少険しい場所もありますので歩きやすい靴で行くことをおすすめします。また雪丸でしか買えない幸村土産は田原照志商店(南九州市頴娃町牧之内11626)にございます。

大隅半島錦江町の「真田稲荷神社跡」は錦江町の中心部栄町近くにあります。但し分かりにくい場所にありますので地元の方に墓地公園の場所をお訪ねする事が良いでしょう。墓地公園にある最初の駐車場付近のシュロや南国の植物生い茂る林の中に祠と石柱はあります。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/08/07 訪問

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