写真:沢木 慎太郎
地図を見るお寺というと、京都や奈良をイメージする方が多いと思いますが、寺院の数では大阪の方が多いのです。
大阪市営地下鉄・谷町線の「谷町九丁目」から、「四天王寺前夕陽ヶ丘」までの間は、豊臣〜徳川時代に多くの寺院が集められ、“寺町”と呼ばれていました。聖徳太子が建てた四天王寺をはじめ、約200もの寺社が南北に建ち並び、遠い昔へタイムスリップしたような、ゆっくりとした時の流れが感じられます。
かつて大阪のほとんどは海で、陸地といえば半島のように突き出た上町台地だけでした。このため、上町台地から西側にある松屋町筋へは急な坂が多く、静かで落ち着いたたたずまいの石畳の坂道を見ることができます。
四天王寺界隈には、「真言坂」「源聖寺坂」「口縄坂」「愛染坂」「清水坂」「天神坂」「逢坂」の七つの坂道があり、これらを称して“天王寺七坂”と呼ばれています。
写真は「源聖寺坂」で、登り口に源聖寺があることから名づけられました。石畳と白壁のコントラストがなんとも見事で、情緒たっぷりの風景は口縄坂と並んで人気の高い歴史散策コース。入り口から途中までは石畳となっており、途中からは急な階段となるので、上町台地の高低差を実感してください。
写真:沢木 慎太郎
地図を見る源聖寺坂から南に進むと、京都の清水寺と同じ名前の清水寺にたどり着きます。写真は、大阪の清水寺の境内にある“玉出の滝”。大阪市で唯一の天然の滝があることで知られています。閑静な住宅街が広がる大阪のど真ん中に、こんな滝があるなんてなんとも不思議。
滝の水源は、四天王寺の金堂の下にある青竜池から湧き出ている霊水といわれており、祈願すると霊験が授かるとされるパワースポットの地でもあります。
創建の時期は不明ですが、1640年に延海(えんかい)という名前の僧侶が観世音菩薩のお告げを受け、京都の清水寺を模した舞台造りの本堂を建立したもの。崖の上に造られた舞台造りの建物は、京都の清水寺を彷彿とさせます。
写真:沢木 慎太郎
地図を見る続いてのご紹介は、恋愛のパワースポットとして知られる“縁結びの愛染(あいぜん)さん”。勝鬘院(しょうまんいん/通称:愛染さん)の境内には、縁結びの霊木『愛染かつら』や、『愛染めの霊水』があり、良縁を願う参拝者が絶えません。
写真の“愛染かつら”は、1936年に公開された恋愛映画『愛染かつら』で主演男優の吉田輝雄さんが植樹した桂(かつら)の樹。男性的な大樹の桂に、蔓(かずら)が寄り添うように絡みついていることから、男女の縁を結ぶ霊木として祀られるようになりました。この桂は大阪大空襲で表面が焼けただれたにもかかわらず、戦争を生き抜いた樹で、不思議な生命力が宿っています。この日、若いカップルが霊木『愛染かつら』の前で仲良さそうに祈りをささげていたのを見て、ほのぼのとした気持ちになりました。
愛染さんは、593年に聖徳太子によって建てられたお寺。もともとは薬草を植えて、病気に苦しむ庶民たちを救う「施薬院」として建てられたもので、これは日本で最初の社会福祉施設とされています。
その後、聖徳太子が、この地で仏教の経典である勝鬘経(しょうまんきょう)の講義を行ったことから「勝鬘院」と呼ばれることに。やがて縁結びや夫婦和合にご利益のある愛染明王が祀られるようになり、“愛染さん”と地元から親しまれるようになりました。
また、勝鬘院の境内にある多宝塔は文禄3年(1594年)に建てられました。大阪市内では最古の建造物となっており、国の重要文化財にも指定されています。
写真:沢木 慎太郎
地図を見る続いてのご紹介は、“愛染さん”から近い安居神社(やすいじんじゃ)。祀っているのは、平安時代の文人で朝廷の右大臣を務めた菅原道真です。九州の大宰府に左遷される時に、道真が船を待ちながら「安らいで居た」とされる場所。
また、この安居神社は、豊臣秀吉に仕えた真田幸村が戦死した地でもあります。幸村といえば、1615年の大坂夏の陣で少数の兵を従えただけで徳川家康の本陣まで迫り、家康を恐怖に陥れた猛将。境内には真田幸村の石碑や、幸村が敵兵に打たれた場所にあった“さなだ松”(二代目)があります。
写真は、幸村の銅像。威風堂々とした姿を現世に残しています。口数の少ない温和な男でありながら、戦闘指揮官としての能力は優れていたようで、討ち死にした幸村の奮戦ぶりは東軍からも「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称えられたほど。現在も幸村を慕って、多くの方が参拝に訪れています。
もともと幸村は、真田家が秀吉に差し出した人質。しかし、秀吉に目をかけられ、幸村は家臣として仕えるようになりました。秀吉の死後、関ヶ原の戦いで西軍に味方し、敗者となった幸村は罪人として高野山の麓にある九度山に身をひそめます。一方で、家康は豊臣家を滅ぼそうと画策。秀吉の子どもである秀頼から助けを求められた幸村は大坂城に入り、勝利が期待できない戦いへと突き進みます。
写真:沢木 慎太郎
地図を見る写真は、幸村戦死の地からほど近い清水坂。この界隈では今も美しい夕陽を見ることができます。夕陽の光が石畳を照らし、あたりは情緒的な雰囲気に。幸村も、この坂から夕陽を見ていたのかもしれません。
1615年4月28日、大坂夏の陣が開戦。兵力は豊臣軍が約7万で、徳川軍が約15万5千。スパイがいたこともあり、豊臣軍は苦戦を強いられます。そのような状況で幸村は5月7日、茶臼山に布陣し、圧倒的に優勢な家康に向かって少人数で突進。家康の首だけを狙いに定め、気迫のこもった戦いで大軍を突破し、家康の本陣にまでたどり着きます。
その勢いは、家康の本陣の旗を引き倒すほど。家康にとって本陣の旗を倒されたのは、「三方ヶ原の戦」の武田戦と、幸村による切込みの二度だけ。家康は切腹しようとしましたが、側近たちに止められます。
家康を恐怖に陥れた幸村ですが、数倍もの敵に囲まれ次第に追いつめられていきます。四天王寺に近い安居神社に撤退。負傷した幸村は神社の近くの畦(あぜ)で手当てを受けていましたが、敵に見つかって槍で刺されます。享年48歳。翌日、秀頼と淀殿は自害し、大坂夏の陣は終わります。
真田幸村は、九度山に身をひそめていれば生きながらえることができたでしょう。しかし、討ち死に覚悟で突き進んだのは、武人としての死に場所を求めたからにほかなりません。敵味方に関係なく、幸村が絶賛されるのは武士の誇りを持った本当のサムライだったから。勇敢な死によって幸村の名声はあがり、娘たちを良縁へと導きました。
幸村は戦死する直前に、娘の婿に手紙を送っています。
「自分は討ち死にするだろう。
もう二度と会うことはないだろうが、
どうか娘のことは至らぬことがあっても、
見捨てないでやってくれ」
死ぬとわかっていて突撃した幸村。新しい道が展開するなら、そこに懸けてみたい。残された家族が幸せになって欲しい。幸村が今も人気があるのは、その人柄によるものでしょう。
そんな幸村の生き様が感じられる大阪の上町・四天王寺前夕陽丘界隈。また、この地は、織田作之助の自伝「木の都」にも登場するほか、井原西鶴や近松門左衛門などの墓もあり、文学にもゆかりのあるエリアです。
「天王寺七坂」や「玉出の滝」などの旧跡を巡り、大阪の歴史と文学を楽しみながら、のんびりと歴史散策をされてはいかがでしょうか?味わい深い夕陽が優しく迎えてくれることでしょう。
なお、幸村ゆかりの大阪の地については別途、記事にまとめていますので、ご興味のある方はリンクからのぞいてみて下さい。
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