幻に終わった夢の跡、上杉氏の居城「神指(こうざし)城跡」会津若松市

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幻に終わった夢の跡、上杉氏の居城「神指(こうざし)城跡」会津若松市

幻に終わった夢の跡、上杉氏の居城「神指(こうざし)城跡」会津若松市

更新日:2016/09/01 17:00

なべ部 FGのプロフィール写真 なべ部 FG

天下分け目の関ケ原の合戦の年に、会津の領主だった上杉景勝が、直江兼続に命じて築城しようとした広大な平城が神指城です。会津若松市の西側、阿賀川が流れるすぐ脇に水運も取り入れようと築かれていました。徳川家康の会津上杉征伐によって築城が中断し、日の目を見ることがありませんでしたが、現在でも、その遺構が残る貴重な文化財です。本丸跡地の内部は、私有地で立ち入り禁止ですが、周りの案内板を頼りに周遊できます。

鶴ヶ城の2倍の広さ、神指城の東北角には高瀬の大木

鶴ヶ城の2倍の広さ、神指城の東北角には高瀬の大木

写真:なべ部 FG

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会津若松市でお城と言えば、鶴ヶ城ですが、関ヶ原の合戦の年、江戸時代が始まる直前に築かれようとし、未完成に終わったお城が、鶴ヶ城から北西約8キロメートルの「神指城」です。慶長3(1600)年3月に築城を開始したことで、謀反の疑いをかけられ、直江兼続が家康に対し挑発的な申し開きをした「直江状」へつながり、上杉征伐の口実を与えました。
家康が上杉征伐に出陣したため、6月初めには本丸と二ノ丸の大半が完成間近であったが、築城を中止し、白河に砦などを築き合戦に備えました。城主の上杉景勝は、関ヶ原の合戦後、米沢に移封(国替え)となったため、入城することなく終わりました。徳川家康の上杉征伐が関ヶ原の合戦の引き金となったことを鑑みると、歴史上重要なターニングポイントとなった場所と言えます。

本丸は東西180メートル、南北306メートル。二ノ丸は東西468メートル、南北522メートルで、完成すれば、鶴ヶ城の2倍の55ヘクタールもある東日本最大級の平城になる予定でした。
広大な二の丸の東北角の土塁跡、鬼門の場所に今も残るのが、高瀬の大木と呼ばれるケヤキの巨木です。推定樹齢は約500年、幹回り13メートル、高さが25メートルもあり、田んぼが広がる平地にポツンと目立ちます。春には、周囲に植えられた桜が咲く、名所です。

神指城本丸跡

神指城本丸跡

写真:なべ部 FG

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本丸が築かれた場所の住所は、まさに「神指町本丸」。田園地帯の中に、樹木の生えたこんもりとした森のようです。
石垣を積んだ跡や、濠の跡、天守閣予定地などに案内板が立ち、今でもその場所が特定できる状態です。一部は畑や資材置き場、駐車場などになっていますが、ほとんどが放置された山林のような状態です。

本丸の西門脇の濠から、舟で大川(阿賀川)へつながり、新潟県の日本海側への水運貿易も考慮された造りでした。

濠に囲まれた本丸跡

本丸の周りに廻らせた、石垣の石は3里離れた東山温泉の北側、慶山の石切場から、延べ12万人を動員して運び出されたと言います。築城開始から3ヵ月で、本丸の周り東西と北側の三方に門を設けた石垣と濠がほぼ完成していました。
特に、防御を固めた南側の石垣の高さは20メートル、その周りは幅20メートルの濠に囲まれていました。

運び込まれた石垣は、廃城となった後、後の領主、加藤氏が、鶴ヶ城拡張の際、すべて運び出し、現存する西出丸や北出丸の石垣に利用しました。

北西側に計画された天守閣は、着工されませんでしたが、CGで再現された完成予想図の案内板で、その壮大なようすがうかがい知れます。

濠に囲まれた本丸跡

写真:なべ部 FG

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本丸跡のすぐ隣に、新選組ゆかりの如来堂

本丸跡のすぐ隣に、新選組ゆかりの如来堂

写真:なべ部 FG

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慶応4(1868)年の戊辰戦争で、山口次郎こと斎藤一ら新選組隊士20名程度が西軍を迎え討ちし、激戦の末、敗北した地が如来堂。神指城の本丸跡から数百メートル南西の場所です。

母成峠の戦いで西軍に敗北した新選組は、会津を離れる土方と別れ、山口次郎を中心に会津で徹底抗戦しようと、此の地で陣を敷いていたが、9月4日に西軍の襲撃を受け、全滅したとされます。

如来堂のお堂の白壁には、弾痕らしき痕跡が残ります。

戊辰戦争で勇敢に戦った中野竹子

戊辰戦争で勇敢に戦った中野竹子

写真:なべ部 FG

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もう一カ所、近くにある戊辰戦争の悲劇の地をご紹介します。神指城跡から約1キロメートル東の湯川沿いにあるのが、「中野竹子殉節の碑」。

慶応4(1868)年8月、越後街道の隣町、坂下に出陣していました、中野竹子姉妹を中心とした会津婦女薙刀(なぎなた)隊の女人たちは、若松城下へ向かう衝鋒隊に従軍が許され、薙刀を抱えて出発しました。七日町手前の湯川を渡る涙橋近くで、西軍の長州・大垣兵と遭遇し、激戦となりました。中野竹子らは、薙刀で応戦したが、銃撃され戦死しました。薙刀に辞世の句の短冊を結び戦ったと言います。
碑の裏側には、辞世が刻まれ、中野竹子の勇ましい薙刀姿の像も建てられています。

おわりに

今回ご紹介した、神指城跡などの史跡は、会津若松市の西はずれにあり、お土産店など全くない場所です。落ち着いた場所で、先人たちの遺業を巡ってみてはいかがでしょうか?

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/03/06−2016/03/16 訪問

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