真田幸村、最後の戦い!「三光神社」「茶臼山」「安居神社」「大阪城」

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真田幸村、最後の戦い!「三光神社」「茶臼山」「安居神社」「大阪城」

真田幸村、最後の戦い!「三光神社」「茶臼山」「安居神社」「大阪城」

更新日:2016/12/22 16:06

沢木 慎太郎のプロフィール写真 沢木 慎太郎 放送局ディレクター、紀行小説家

豊臣vs徳川、最後の決戦「大坂夏の陣」。圧倒的な軍勢を誇る徳川家康。しかし、家康の首だけを狙い、一直線に切り込んでゆく武将の姿がーー。その武将とは、NHK大河ドラマ『真田丸』の主人公、真田信繁(幸村)。俳優の堺雅人さんが演じる幸村の苦悩や、武人としての生き方に共感された方も多いことでしょう。
大阪・天王寺界隈は、幸村が男の命を懸けた最後の激戦地。幸村ゆかりの大阪への旅で、名将の魂に触れませんか?

幸村が戦った砦!これが「真田丸」の全容

幸村が戦った砦!これが「真田丸」の全容

写真:沢木 慎太郎

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NHK大河ドラマ『真田丸』。キャストは主演の堺雅人さん、幸村の父を演じる草刈正雄さん、家康は内野聖陽さん、ヒロイン役の長澤まさみさんなど、登場するキャストたちも魅力的。小さな家族“真田丸”を守るため、悩み、苦しみ、戦国時代の波にほんろうされながらも誇り高く、必死に生きようとする家族愛の物語です。

実際の「真田丸」というのは、大阪城の南側に築いた砦(とりで)のこと。周囲を川で囲まれた大阪城は難攻不落。しかし、南側だけは陸続きで、唯一の弱点。徳川勢はかならずここを攻めてくる。幸村は、家康を積極的に迎え撃つため、あえて大阪城の外側に「真田丸」を築きます。諸説はありますが、「真田丸」は大きさが約200メートル四方にも及び、土塁の高さは約9メートル。

幸村が戦った砦!これが「真田丸」の全容

写真:沢木 慎太郎

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写真が「真田丸」のジオラマで、大阪市天王寺区役所1階で見ることができます。大坂冬の陣では茶臼山(ちゃうすやま)に家康は本陣を築きますが、これは家康から見た「真田丸」。中央からやや右寄りの奥に見えるのが大阪城(手前は四天王寺)。赤いのぼりを立て、深い堀を巡らし、家康から大阪城を守ろうとする幸村の心意気が感じられる見事な砦です。

■天王寺区役所
アクセス:大阪市営地下鉄・谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘」から徒歩約5分

「真田丸」の名残り!大阪城につながるヒミツの穴「三光神社」

「真田丸」の名残り!大阪城につながるヒミツの穴「三光神社」

写真:沢木 慎太郎

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秀吉が死去し、関ケ原の戦いで西軍が破れた後、秀頼(秀吉の子ども)もろとも豊臣家を滅ぼそうと、家康は画策。家康は日本全国の大名を集め、大阪城を包囲。その数、約20万。徳川の大軍勢に対し、「真田丸」に立てこもる真田軍はわずかに3000。

慶長19年(1614年)12月4日未明。大坂冬の陣の火ぶたが切られます。霧に隠れて攻め入る徳川軍。これに対し、六文銭の旗のもと、武具を赤く染めた幸村軍は、まるで燃え盛るツツジのような鮮やかさ。六文銭とは、あの世にわたる三途の川の渡し賃。決死の覚悟で挑む幸村軍の士気は高く、凄まじい勢いで奮戦し、徳川軍に大打撃を与えます。

「真田丸」の名残り!大阪城につながるヒミツの穴「三光神社」

写真:沢木 慎太郎

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こちらが激しい戦場となった跡地に建てられた「三光神社」。真田丸があった場所で、幸村の銅像があるほか、この隣には大阪城につながるというヒミツのトンネルがあります。真田の抜け穴≠ニ呼ばれるもので、幸村が使った秘密の抜け道(諸説あり)。普段は鉄の扉で閉められていますが、11月の第1日曜日に行われる「真田祭り」の際には開放されます。

大坂冬の陣で豊臣、徳川側ともに多大な犠牲者を出し、和平が成立。その条件の一つとして、真田丸は取り壊されました。このため、真田の抜け穴≠ヘ唯一と言ってもいいほど、「真田丸」の名残りが感じられる遺構。穴の前に立つと、400年前の戦国ドラマが遠くから聞こえてきそうです。

「真田丸」の名残り!大阪城につながるヒミツの穴「三光神社」

写真:沢木 慎太郎

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「三光神社」の境内には、六文銭がデザインされた絵馬があり、学業や就職、試合など、勝負ごとを祈願する人たちの姿が多く見られます。

「望みを捨てぬ者だけに道は開ける」

NHK大河ドラマの最終回。家康との最後の決戦を前に、真田幸村を演じる堺雅人さんは秀頼や淀殿に優しい目で語りかけます。ドラマでは、幸村が切腹するシーンで終わりますが、空を見上げる幸村の明るく澄んだ目が印象的です。

命あるものは、いずれ死ななければならない運命。その死に打ち勝つのは、澄み切った武者魂。それは自害ではありません。“自分が生きた証が立てられただろうか”と想い悩む幸村が、死力を尽くして辿り着いた最高の頂点だったのではないでしょうか?

■三光神社
アクセス:JR大阪環状線「玉造駅」、大阪市営地下鉄・長堀鶴見緑地線「玉造駅」から徒歩約5分

幸村、最後の本陣「茶臼山」

幸村、最後の本陣「茶臼山」

写真:沢木 慎太郎

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真田幸村は徳川軍に大打撃を与えながらも、豊臣側は家康との和睦を決定。和平の条件として、「真田丸」をはじめ、強固な堀までを家康側は埋め尽くします。すっかり防御力を失った大阪城に向け、家康は再び進軍を開始。慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が始まります。

決戦の日、5月7日朝。「真田丸」を失った幸村は、天王寺区の茶臼山に本陣を設け、最後の決戦に挑みます。その時、幸村が布陣した場所が、大阪・天王寺区にある茶臼山(ちゃうすやま)。この赤い橋の先に盛り上がっているのが茶臼山で、ここは前方後円墳。「真田丸」を失いながらも、幸村は大阪に点在する古墳を巧みに利用し、決してあきらめることなく「必勝」を信じていました。

幸村、最後の本陣「茶臼山」

写真:沢木 慎太郎

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幸村は茶臼山に陣を設け、3倍以上の兵力を持つ徳川軍を見下ろします。圧倒的な敵の数。その時の軍勢を記した看板が、茶臼山に掲げられています。赤が幸村で、青が家康。さきほどの赤い橋をまっすぐ進むと、この看板が見えてきます。

左の階段を登れば、そこは高さ30メートルにも満たない茶臼山の山頂。周囲を木で囲まれ、原っぱになっているだけで、幸村につながる手がかりは何もありません。しかし、ここに立てば当時の幸村の気持ちに近づくことができ、深く魂に響くものがあります。幸村は、どのような想いで戦況を見つめていたのでしょう。

幸村、最後の本陣「茶臼山」

写真:沢木 慎太郎

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そして、ここが茶臼山の山頂です。わずか直径10メートルほどしかなく、こんな狭い場所に布陣していたのかと驚かされます。茶臼山に布陣する幸村。敵は3倍。しかし、圧倒的に不利な中でも、幸村はあきらめません。自分がおとりになって、家臣たちが家康の背後を突く戦法を取ります。

しかし、徳川の軍勢に驚いた前線部隊が戦闘を開始。背後を突く戦法は不可能となり、武力の差でわが軍が全滅するのは明らか。茶臼山の山頂で、幸村は死を覚悟します。

「ならば、最後に武者魂を天下に示したいーー」。ねらうのは、家康の首だけ。

■茶臼山
アクセス:JR「天王寺駅」、大阪市営地下鉄御堂筋線・谷町線「天王寺駅」から徒歩約10分

最後の突撃…幸村の終えんの地「安居神社」

最後の突撃…幸村の終えんの地「安居神社」

写真:沢木 慎太郎

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写真の神社は、茶臼山からほど近い場所にある「安居神社」。幸村が最期を遂げた神社として知られています。では、悲しいことですが、幸村の最期をたどってゆきましょう。

真田幸村、最後の戦い。最後の突撃が始まります。幸村隊は、家康本陣に向かって、一直線に突進。その一歩手前まで突き進みます。家康は恐怖におののき、自害をしようとしますが、家臣たちに止められます。しかし、やがて体制を整えた徳川の大軍勢が幸村を取り囲み、幸村軍は次々と倒れていきました。

最後の突撃…幸村の終えんの地「安居神社」

写真:沢木 慎太郎

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5月7日夕刻。幸村はみずから傷つきながら、家臣を介抱しているところを見つかり、敵に討たれます。享年49歳。その幸村が戦死した場所が、安居(やすい)神社。ひっそりとした静かな空気が張りつめています。

写真の真ん中に見える木が、“さなだ松”と呼ばれ、この松の木の下で幸村が最期を遂げとされています。安居神社の敷地内には、幸村の銅像や石碑が建ち、多くの酒樽が備えられ、今も多くの人々が幸村を慕い続けています。

最後の突撃…幸村の終えんの地「安居神社」

写真:沢木 慎太郎

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大河ドラマでは、神社の階段前で幸村が武人らしく、切腹する姿を暗示させて終わりますが、場所としては安居神社のこのあたりでしょうか?

幸村役を演じた堺雅人さんの澄み切った目が今も印象的。幸村は勝利を信じながらも、家康との最後の戦いを前に、家族を城から逃がします。自分が討ち死することも考え、重大な使命を側室の「きり」(長澤まさみさん)に託します。突然に、きりを抱き寄せる幸村。きりはひと言、「遅い…」。もっと若く、綺麗なころに抱かれたかった。長すぎた恋がようやく成就し、ふたりは一瞬のうちに生涯の愛を傾けます。そして、幸村はすでに自分が時代遅れになっているのを知りながら、最期の時を迎えます。

■安居神社
アクセス:大阪市営地下鉄御堂筋線・谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」から徒歩約5分

幸村の魂は今もここに…「大阪城」

幸村の魂は今もここに…「大阪城」

写真:沢木 慎太郎

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最後にご紹介する幸村ゆかりの地は、大阪城。天守閣は夏の陣で焼失しますが、徳川幕府によって再建。以降、落雷などで被害を受け、天守閣を持たない城でしたが、昭和時代に市民による寄付で再建工事が始まり、さらに平成の大修理で豊臣秀吉時代により近い姿で復元しました。現在の大阪城は、博物館・展望台として使われ、5階では大阪夏の陣で戦った真田幸村の激戦をミニチュア人形で再現しています。

関ケ原の戦い以降、敗者となった幸村は、罪人として高野山の麓にある九度山に身をひそめることに。15年間の幽閉生活で、父親を亡くします。死の間際に、父はひと言。「もう一度、家康と戦いたかった」。そんな幸村に、助けを求めてきたのが秀頼でした。幸村は武具を取り、大阪城へと向かいます。大阪城は、天王寺区から近く、幸村ゆかりの地として最も絵になる観光スポット。これら激戦区めぐりの後は、大阪城を訪ね、名将の魂に触れてみてはいかがでしょうか?

■大阪城
アクセス:大阪市営地下鉄谷町線「天満橋駅」・中央線「森ノ宮駅」・長堀鶴見緑地線「大阪ビジネスパーク」、JR大阪環状線「森ノ宮駅」など

おわりに

幸村が「真田丸」に立てこもり、徳川勢に大打撃を与えているころ、一人の使者が訪ねて、こう言いました。
「徳川方に寝返れば、信州国を与える」
しかし、幸村は断ります。

「紀州でただ命を長らえているところを、秀頼様に召し出され、武士としての面目を立てていただいた身。このご恩は、土地や金には到底かえられない」。

徳川に寝返ったとしても、体制の中に組み込まれた生き方しかできない。それは自分の本意ではない。幸村が、時代を超えて人気があるのは、忠誠を尽くした武人だけにととまらず、窮屈な世の中でいかに生きていくか。たとえ命を失うことになっても、自分の本当の生き様を求める男だったからではないでしょうか?

なお、天王寺区には、ご紹介した以外の魅力のある観光スポットもあるので、ご興味のある方はリンクからのぞいてみて下さい。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/08/28 訪問

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