タモリも認定!幻の「真田丸」の痕跡を探す旅「大阪・玉造」

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タモリも認定!幻の「真田丸」の痕跡を探す旅「大阪・玉造」

タモリも認定!幻の「真田丸」の痕跡を探す旅「大阪・玉造」

更新日:2016/11/14 19:32

沢木 慎太郎のプロフィール写真 沢木 慎太郎 放送局ディレクター、紀行小説家

戦国最後の戦い、大坂の陣。徳川家康の大軍勢に立ちふさがったのが、豊臣方の名将・真田信繁(幸村)。幸村は、巨大な要塞「真田丸」を築き、徳川軍を迎え撃ちます。やがて真田丸は取り壊され、歴史の闇へと消えますが、NHKの大河ドラマ『真田丸』の舞台になったことで再び注目を集めることに。タモリが司会を務めるNHK『ブラタモリ』でも取り上げられ、タモリも認定した場所。真田丸めぐりを楽しむポイントをご紹介します。

「真田丸」の場所は?どんな要塞だったのか

「真田丸」の場所は?どんな要塞だったのか

写真:沢木 慎太郎

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慶長19年(1614年)12月。徳川家康が率いる20万の大軍勢が、豊臣秀頼の大阪城に攻め寄せます。これが、大坂冬の陣。幸村は、大阪城で守りが手薄となっている南側に砦を築き、家康軍に大打撃を与えます。その砦が、「真田丸」と呼ばれる要塞。写真は天王寺区役所1階に展示されているジオラマ模型ですが、かなり大規模な砦だったことがわかります。ちなみに、模型の右側が大阪城方面(北)、左側が四天王寺方面(南)。

「真田丸」の大きさは約200メートル四方にも及び、土塁の高さは約9メートル。地中レーダーを使った調査や古図など、最近の研究で、「真田丸」があった場所は大阪城の南側、大阪市天王寺区餌差町(えさしまち)のエリア。大阪明星学園を中心とした周辺部分ではないかと推測されています。真田丸は「台形に近い四角形」であったことや、あえて敵に挑むような形で大阪城の外側に造られた「積極的に攻撃するための砦」だったことも、わかってきています。

まさしく、真田丸は“幸村城”ともいえる難攻不落の要塞。天王寺区役所内には、幸村に関する資料が常設展示されているので、先にここを訪れると、「真田丸」のことがよくわかります。

幸村が使ったヒミツのトンネル?「三光神社」の真田の抜け穴

幸村が使ったヒミツのトンネル?「三光神社」の真田の抜け穴

写真:沢木 慎太郎

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「真田丸」のイメージがだいたいつかめたところで、実際に真田丸があった場所を訪ねてみましょう。最寄り駅はJR玉造駅か、地下鉄玉造駅。JR玉造駅構内には、幸村ゆかりの地をめぐる散策マップが置いてあるので、これを持っていると便利です。まずは幸村ムード一色のアーケード商店街(玉造日之出通商店街)でレトロな雰囲気を楽しみながら、徒歩5分ほどの場所にある「三光神社」へ向かいましょう。

「三光神社」の見どころは、幸村の銅像と、その隣にあるトンネル。石垣の壁に、ぽっかりと開いたトンネルは真田の抜け穴≠ニ呼ばれるもの。大阪城につながるというヒミツのトンネルで、幸村が使っていたとされています。このあたり一帯は「真田丸」があったと思われる場所。

まわりと比べて、「三光神社」の周辺だけが急に高台となり、奇妙な地形に驚かされます。さきほど、ご紹介したジオラマ模型の土塁を登っているよう。「真田丸」の微かな気配を感じることができます。ちなみに、ジオラマ模型でいうと、一番手前(東端)にあたるところが「三光神社」の位置する場所です。

真田丸の中心部分「大阪明星学園」

真田丸の中心部分「大阪明星学園」

写真:沢木 慎太郎

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続いては、「三光神社」の西側にある「大阪明星学園」へ向かいましょう。三光神社の北側からまわりこむと、心眼坂と呼ばれる緩やかな坂道に出会います。左手にはお寺が3つ。これらの寺は真田丸の位置を示す古図にも描かれており、心眼坂は真田丸の中央をつらぬく南北の街道跡ではないかという説もあります(冒頭のジオラマ模型の右側に見えていた急坂部分)。

つまり、真田丸の中心部分とは、写真の「大阪明星学園」。心眼坂を上っていくと、急に道の両側が高台となり、高い石垣が築かれ、道のまわりが高い崖になっていることに気がつくことでしょう。心眼坂をほぼ上りきったところにあるのが、真田丸跡地を示す「大阪明星学園の石碑」。

学校の校舎の壁面には、幸村の絵。金網の向こうは学校のグラウンドで、かつての面影はまったくありません。しかし、400年前、この地で幸村は決死の戦いを挑み、圧倒的多数の徳川軍に大打撃を与えたのです。

真田丸跡の石碑も!幸村父子の供養寺「心眼寺」

真田丸跡の石碑も!幸村父子の供養寺「心眼寺」

写真:沢木 慎太郎

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「大阪明星学園の石碑」のほぼ真向かいには、「心眼寺(しんがんじ)」と呼ばれるお寺があり、ここも真田丸があったとされる場所です。門扉には、真田丸跡を示す「出丸城跡」の石碑があり、境内には幸村のお墓もあります。

大阪夏の陣(1615年)で幸村が戦死し、その7年後に幸村父子の供養のために建立。大阪は長い間、徳川幕府の所轄地であり、幸村の墓をつくることはできませんでした。しかし、大坂の陣から400年後になって、ようやく幸村の墓を建立。幸村のファンなら、ぜひお参りしたいお寺です。

ご住職の話によると、この付近は特殊な地形が多く、高低差を利用して真田丸の砦として使っていたのではないかとのこと。真田丸は大坂冬の陣(1614年)後に、家康軍によって取り壊され、その遺構はほとんど残っていません。しかし、微妙な地形の変化に、幻として消えた“幸村城”を感じることができ、遥かな戦国歴史ロマンを楽しむことができます。

幸村が祈願した霊木も!「円珠庵鎌八幡」

幸村が祈願した霊木も!「円珠庵鎌八幡」

写真:沢木 慎太郎

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そして、最後に立ち寄っていただきたい場所が、「円珠庵(えんじゅあん)鎌八幡」。ご覧いただきたいのが、鎌八幡を取り囲む基礎の石垣部分です。三光神社と同様に古い石垣が連なり、真田丸の西端部分(冒頭のジオラマ模型で奥の部分)ではないかとの研究も。かなり広い範囲にわたって、真田丸があったことが実感できます。

鎌八幡にある霊木は真田丸の陣内にあったもの。幸村が木にカマを打ち付け、「鎌八幡大菩薩」と唱えて、戦勝を祈願したと伝えられています。

鎌八幡は、今では大阪屈指の縁切りスポット。病気や男女の仲、因縁などを断ち切ることができ、ご神木にはカマがびっしり打ち付けられています。ちょっと不気味さも漂いますが、独特な神聖な香りがあり、こちらもぜひお立ち寄りいただきたいスポット。ただし、境内での撮影は禁止。由緒あるお寺なので、マナーを守り、静かな気持ちで参拝したいものです。

おわりに

餌差町に広がる寺町は、崖を石垣や塀で固めた寺が多く、真田丸はこれらを要塞の一部として使っていたようです。真田丸に直接つながる遺構は何も見あたりません。しかし、幸村に協力し、生死をともにした古い寺町の名残をわずかに感じることができます。そして、幸村は今も、地元の人々の心の中に生き続けているのです。

「真田丸」を築き、徳川家康に大打撃を与えた幸村でしたが、大坂冬の陣で豊臣側は徳川軍と和平を結び、その条件の一つとして「真田丸」は取り壊されます。その5カ月後に、大阪夏の陣が起こり、幸村はあと一歩のところまで家康を攻めながら、壮絶な最期を遂げます。

大阪市内には、幸村最後の本陣となった茶臼山や、幸村終えんの地「安居神社」など、幸村ファンならぜひ巡っていただきたい場所がたくさん。大河ドラマ『真田丸』をいっそう楽しむためにも、これらのゆかりの地を訪ねてみてはいかがでしょうか?
なお、大阪の幸村ゆかりの地については別途、記事にまとめていますので、ご興味のある方はリンクからのぞいてみて下さい。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/08/28 訪問

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