文豪・森鴎外の生誕地!島根県・津和野町「森鴎外記念館」

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文豪・森鴎外の生誕地!島根県・津和野町「森鴎外記念館」

文豪・森鴎外の生誕地!島根県・津和野町「森鴎外記念館」

更新日:2016/10/08 17:54

KISHI Satoruのプロフィール写真 KISHI Satoru 岬の狩人、伝記研究者、旅するパンクス

『舞姫』や『高瀬舟』などを始めとする多くの代表作を著した文豪・森鴎外。その生誕地である島根県・津和野町には「森鴎外記念館」があり、その北側には「森鴎外旧宅」も残されています。
今回は、森鴎外の生い立ち、その家族や親族、また友人に託した遺言などにも触れつつ、島根県・津和野町にある「森鴎外記念館」を御紹介致します。

「森鴎外記念館」の概要とアクセス

「森鴎外記念館」の概要とアクセス

写真:KISHI Satoru

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律令制の時代には、石見国(いわみのくに)、現在でも“石見”と呼ばれる島根県西部。その地域には現在の島根県鹿足郡(かのあしぐん)津和野町も含まれています。そして、その場所は文豪であり、軍医としても活躍した森鴎外(もり おうがい、1862年〜1922年)の生誕地。

津和野駅から南に向かって、徒歩約25分で「森鴎外旧宅」と並んで建つ「森鴎外記念館」に到着できます。途中には森鴎外も通った藩校「養老館」、津和野の歴史や偉人たちを顕彰する「郷土館」などの観光施設が点在しているので、寄り道しながら訪れるのもオススメです。

森鴎外、本名・森林太郎の誕生

森鴎外、本名・森林太郎の誕生

写真:KISHI Satoru

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1862年(文久2年)、津和野藩の医師であった森静男(もり しずお、1835年〜1896年)と峰子(みねこ、1846年〜1916年)の間に、待望の第一子である男の子が生まれます。後に森鴎外の筆名で作家としても活躍する本名・森林太郎の誕生です。

祖父、父と二代続けて婿養子であったため、男の子の誕生に家族は非常に喜んだと言います。しかしながら、母・峰子はまだ当時15歳。そこで、鴎外の祖母・清子(きよこ、1819年〜1906年)がサポートをしたと伝わっています。

「森鴎外記念館」のロビーはガラス張りとなっており、中庭並びに「森鴎外旧宅」も眺められます。展示室への入口の右手には森鴎外が描かれ、左手には胸像もあります。

巧みな展示構成・第一展示室は、森鴎外の上京から

巧みな展示構成・第一展示室は、森鴎外の上京から

写真:KISHI Satoru

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入口を通り抜けると、まずはシアタールームが設置されています。文豪と軍医と二つの異なる道で活躍した森鴎外の生涯を約6分とコンパクトにまとめた映像『二生を生きる』が流れ、詳しく知らない方でも、概要を把握できるようになっています。

第一展示室は、当時10歳の森鴎外が父・静男と共に津和野を離れ、上京する場面から始まります。この構成には理由があります。森鴎外は1922年(大正11年)に亡くなる時「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と友人に遺言を語りました。

上京してから一度も帰郷せず、また作品の中にも記述が少ない島根県西部の“石見”にある故郷・津和野。しかし死を目前に、文豪・森鴎外でもなく、また軍医でもない、石見の森林太郎として臨終を迎えたいと伝えたのです。

そのため、第二展示室で幼少期や津和野を中心とした紹介がなされています。

第二展示室は、津和野を中心とした展示

第二展示室は、津和野を中心とした展示

写真:KISHI Satoru

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その他、第一展示室には森鴎外の四人の子供たちのゆかりの品々が展示されています。子供たちに対する森鴎外の愛情が感じられる手紙なども並んでいるので、じっくりとその文面を読んでみてはいかがでしょうか。

第一展示室から第二展示室へと向かう途中には、津和野川の流れや津和野城跡(三本松城跡)の山並みや森鴎外の親戚で日本初の西洋哲学者・西周(にし あまね、1829年〜1897年)の旧宅など望むガラス張りの廊下となっています。小休憩ができるように、ソファも整っているので、森鴎外の幼少期だった頃に思いを馳せながら、その眺望を楽しんでみて下さい。

第二展示室には、津和野での生活が家族や藩校「養老館」の偉人たちと共に紹介されています。特に文字の読み書きが出来なかった母親・峰子が自ら勉強に励み、幼い鴎外の学習をサポートしたエピソードや幕末の頃の津和野の絵図を使用した鴎外の見た風景など、充実した内容となっています。

国指定文化財・史跡「森鴎外旧宅」

国指定文化財・史跡「森鴎外旧宅」

写真:KISHI Satoru

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森家一族の大きな期待が掛けられた鴎外は、母親の熱心なサポートによって勉学に励み、早くもその聡明さを見せ始めます。漢学の学習は、声に出して読む“素読(そどく)”と意味を解説する“講釈(こうしゃく)”と二つに分かれていました。

しかし、当時、満6歳であった鴎外は、“素読”するだけで意味を理解し、“講釈”の必要が無かったと言われています。11歳で東京医学校予科(現在の東京大学医学部)に入学する神童ならではの逸話の数々には驚きます。

こちらは、「森鴎外記念館」の北側「森鴎外旧宅」の鴎外の勉強部屋です。中に上がる事はできませんが、庭や入口などから内部を観覧できるようになっています。

島根県・津和野町「森鴎外記念館」のまとめ

1922年(大正11年)に森鴎外は亡くなります。東京向島の「弘福寺」に“森林太郎墓”とだけ刻まれた墓石が建立。翌年の関東大震災により、「弘福寺」は全焼、1927年(昭和2年)に三鷹の「禅林寺」に改葬されました。
また、1953年(昭和28)には、生誕地・津和野にある「永明寺」にも分骨埋葬され、“石見人森林太郎”の言葉通り、故郷へと戻ったのです。「永明寺」は津和野駅から徒歩で約10分の場所ですので、森鴎外のお墓参りに訪ねてみてはいかがでしょうか。

以上、森鴎外の生誕地である島根県・津和野町「森鴎外記念館」の御紹介でした。

※「森鷗外」の正確な表記は、中央のカモメの字が<「區」+「鳥」>となりますが閲覧性保持のため新字体「鴎」を利用した「森鴎外」としています。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/08/26 訪問

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