盛岡で羅漢像499体を拝む!旧盛岡城の建築物も残る報恩寺

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盛岡で羅漢像499体を拝む!旧盛岡城の建築物も残る報恩寺

盛岡で羅漢像499体を拝む!旧盛岡城の建築物も残る報恩寺

更新日:2016/09/21 13:35

Isao Noguchiのプロフィール写真 Isao Noguchi 著述業、観光検定教材製作者、ブロガー

盛岡駅から約20分。報恩寺は499体の尊像が納められている「五百羅漢」があることで有名です。羅漢とは元来、釈迦の弟子である生身の人間を指し、表情豊かな仏像が並んでいるのも頷けます。本堂は2度の焼失に遭いながら、羅漢堂はどちらとも被害を免れていることから、パワースポットとしても注目を集めています。また、山門は盛岡城の城門だったものを廃城に伴い移築するなど、盛岡の歴史が凝縮された寺院といえるでしょう。

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写真:Isao Noguchi

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五百羅漢は報恩寺境内にある「羅漢堂」に納められている尊像です。その数、499体。1731年に報恩寺17代住職が造立し、4年後の1735年に完成しました。

尊像は京都において9人の仏師によって製作されました。完成後、盛岡まで運ばれた輸送用の仏箱等は余すことなく、今日まで台座として再利用されています。五百羅漢の五百という数字は、「あまたの」という意味があり、それぞれの尊像に名はありません。装束からはインド・西域(西アジア)・中国などの僧の容姿が連想され、マルコ・ポーロやフビライ・ハンの像も鎮座しています。

現在、五百羅漢の存在は日本各地で50例ほど確認されていますが、木彫りのもので499体が現存し、製作年表・尊像の製作者まで明確に記録が残っているのは全国的にも稀な事例です。尊像を前にすると、身の引き締まる気持ちになるというよりは、心が和むという表現のほうが合っているかもしれません。ひとつひとつ違う表情を見比べながら、ついつい、自分に似たものはないかと探してしまいます。

石川啄木と宮沢賢治。作品と生死観に向き合った安らぎの場所

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写真:Isao Noguchi

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石川啄木がまだ盛岡中学校の学生だった頃、彼はこの周辺一帯を級友とよく散策したといいます。啄木の詩集「あこがれ」に登場する「落瓦の賦」は報恩寺を詠んだものです。そして、この地を愛した文化人は彼だけではありません。宮沢賢治もその魅力に惹かれた人物の一人です。盛岡高等農林学校時代に報恩寺で参禅しており、静寂に包まれた境内で心を整えるには、彼にとって最適な環境だったのでしょう。

羅漢堂に入ると、ぐるりと取り囲む無数の尊像から、視線を一気に浴びているような感覚に陥ります。威厳に満ちた仏像ならまだしも、満面の笑みを浮かべた仏像に見られていると思うと、心の奥底を見透かされているようで、通常の御堂とは一風変わった印象を受けることでしょう。これだけの仏像が集合していることは大変珍しいので、時間の許す限りその尊顔の豊かな表情を楽しんでみてはいかがでしょうか。

また、「死んだ肉親に会いたくなったら、五百羅漢像に納められている」「羅漢堂へ行って五百羅漢像の顔を覗いてみると肉親に生き写しの顔に出会える」といった逸話があります。その真偽を確かめるにはかなりの労力を要しますが、それだけこの地は人々にとって「生と死」というものを身近に感じられる場所だったのです。

財の限りを尽くし、芸術性を併せ持つ本堂。寒暖差にはご注意

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写真:Isao Noguchi

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現在の報恩寺は広大な「座禅堂」と「五百羅漢」を中心に藩政時代から栄えていました。本堂に掲げられている「上棟相済云々」の銘板によると、1850年から1851年にかけて、地元の大工棟梁を含めた総勢二十余名によって改建事業がなされています。

御影石の土台を基に方形造りの土蔵仕立て、屋根は「瓦葺」、随所に梁、柱、桁木などの巨材を惜しみなく使用。元々は檜皮葺の三和土(たたき)で造られ、土面を堂内巡りできるようにしてあったといわれています。中でも注目すべきは礼壇上の天丼に描かれた、狩野林泉筆と伝わる見事な「龍図」です。今にも地上に降臨してくるかのような迫力には圧倒されます。

灼熱の日差しが降り注ぐ日中でも、建物内は意外と涼しく、汗も自然と引いてしまうほどです。一方、冬はかなりの厳寒が予想されるので、指先や腰周りなど、冷えやすい部分はしっかりと防寒対策をして参拝なさって下さい。

政治的背景からみる報恩寺の変遷。精神的支柱としての存在感

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写真:Isao Noguchi

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寺院は1362年に開山、1394年に南部家当主、守行によって陸奥国の三戸郡に創建されたと伝えられています。その後1601年、陸奥盛岡藩主利直の時代、盛岡に城下町を形成するにあたり、この寺院も現在の地に移築されました。

それから時は流れ、幕末期の1869年、盛岡藩家老、楢山佐渡は戊辰戦争における「奥羽越列藩同盟」から離脱し、新政府側についた久保田藩を攻めた責任を咎められ、報恩寺の本堂において切腹させられました。

創建時から報恩寺の寺格というものは高く、盛岡藩の手厚い保護を受けていたことが伺えます。重厚な造りである山門や高い技術を駆使した本堂などを見ても、「盛岡五山」に名を連ねるだけのことはあり、盛岡における仏門のシンボル的な存在でもあったのです。明治維新後も「平民宰相」と呼ばれた原敬が「戊辰戦争殉難者50年祭」を開くなど、地域の祭事には欠かせない場所となっています。

英語が堪能な案内人!他者を受け入れる盛岡の風土と心意気

報恩寺の拝観受付では、窓口の上部に誰が訪れてもその意味が分かるようにと、般若心経の内容がイラストで書かれています。この「おもてなし」の心はとてもきめ細かい配慮といってよいでしょう。

また、海外の旅行者が寺院について尋ねると、流暢な英語で答えが返ってきます。寺院関係者の「参拝者は日本人だけではない」という気持ちの表れです。

「よその地域から来てくれた人達に、盛岡のことを知ってもらいたい。」その心意気に感化され、寺院を訪れた人ならばきっと、寺院の隅々まで観て周ってしまうことでしょう。そして、拝観後は少しだけ盛岡人の心を共有できたという喜びを感じ、清々しい気持ちになるはずです。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2016/08/07 訪問

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