1500年前“そのまま”の前方後円墳は必見!群馬県「保渡田古墳群」周辺

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1500年前“そのまま”の前方後円墳は必見!群馬県「保渡田古墳群」周辺

1500年前“そのまま”の前方後円墳は必見!群馬県「保渡田古墳群」周辺

更新日:2016/09/21 11:27

松縄 正彦のプロフィール写真 松縄 正彦 ビジネスコンサルタント、眼・視覚・色ブロガー、歴史旅ブロガー

群馬県の榛名山東南麗から、1500年前の古代社会が発掘されているのをご存じでしょうか?築造時のままの姿の前方後円墳がある「保渡田古墳群」や、豪族の館、渡来人との関係も窺える金銅製の貴少な飾り履も出土しています。文字記録の無い古墳時代、ここは物から当時の姿が分かる歴史マニア必見の貴重な場所。“日本の埴輪は保渡田古墳なくしては語れない”ともいわれている保渡田古墳群と周辺に残る古代の息吹をご紹介します。

1500年前“そのまま”の前方後円墳!

1500年前“そのまま”の前方後円墳!

写真:松縄 正彦

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「保渡田古墳群」周辺は、古墳が作られた当時の社会がそのまま見られる稀有な場所です。その理由は榛名山にあります。1500年前に大噴火し、火山灰の下に、榛名山の東南に栄えていた古代社会をそのままパッキングしてしまったのです。本記事では、発掘された遺跡や「かみつけの里博物館」で展示されている出土物をご紹介し、記録に残っていない古墳時代へとご案内しましょう。

日本には古墳が数多くありますが、作られた当時の姿が分かる古墳はほとんどありません。保渡田古墳群(3つの前方後円墳があります)の中でも「八幡塚古墳」は1500年前の築造時の姿が復元された貴重な前方後円墳です(写真:前方部より後円部を見た光景)。

この古墳は長さが96mで三段になっており、斜面が葺石で覆われています。この葺石の数はなんと40万個近くもあるのです。また、下段から上段へと次第に葺石の密度が高くなるように葺かれています。

さらに写真のように、各斜面の縁にはなんと6000本もの“円筒埴輪”が直線上に並べられています。古墳自体も二重の堀に囲われ、内堀のなかには4つの円形の島が作られています。ぜひ古墳に登って、その大きさや構造を見て下さい。築造時の姿が見られる古墳はここ以外にはほとんどありません。

後円部では死者が“舟形の石棺”に葬られていました(舟形についてはMEMO欄のたびねす記事を参照)が、4つの島はこの後円部を囲むように作られており、ここで祭祀が行われたと推定されています。また円筒埴輪で結界を張っていたと思われますが、6000本もの埴輪をつくるとは、余程力のあった豪族でなくてはできません。ちなみに埴輪はこの古墳の傍で焼かれたといわれますが、数が多いために一部は藤岡にあった窯場で作られました。焼くための薪や材料の粘土だけでも大変な量です。

また外側の堤の上には“盾持ち埴輪”も所々に置かれています。これは、邪悪なものから古墳を守る役目をしていたといわれます。いわば聖域の守護者としての役割を担っていたのです。結界といい、いかに埴輪が古墳になくてはならない存在であるかが良く分かります。

八幡塚古墳なくして日本の埴輪を語れない!

八幡塚古墳なくして日本の埴輪を語れない!

写真:松縄 正彦

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八幡塚古墳には埴輪がもっとたくさん置かれている面白い場所があります。それは前方部の外堤上で、丁度古墳への通路の脇にあります。ここには、人物や動物の埴輪が一定の配置で54体も並べられています。これは外から古墳を見る人を意識し、この場所に一定のストーリー性を考えて造形されたといわれています。

ちなみにこの場所では、1)狩りの場、2)儀式の場など7つのシーンが表現されているという説が有力で、写真は王様(中央右手、赤いギザギザ様パターンの冠の人物)が巫女(中央左手前、杯をもつ人物)から聖水、あるいは酒を進められている神聖な儀礼の場を示しているといわれます。

実はこの保渡田古墳群からは100個体もの埴輪が出土しており、「埴輪の種類、その職掌、服装、仕草、埴輪間の関係などが明確である」事が大きな特徴です。この事より、これらの埴輪群は日本の埴輪研究に欠かせない基準資料になっているのです。まさに八幡塚古墳なくして日本の埴輪は語れないといっても過言ではありません。

金色(金銅製)の飾り履も出土!

金色(金銅製)の飾り履も出土!

写真:松縄 正彦

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ところで、榛名山の噴火の土石流に飲み込まれていた古墳が近くにあります。「下芝谷ツ古墳」です。これは“方形積石塚”で朝鮮半島に由来する古墳です。ここからなんと黄金の飾り履が出土しました。日本では熊本県の江田船山古墳、奈良県の藤の木古墳や滋賀県の鴨稲荷山古墳など5世紀後半から6世紀の時期に、全国で20例程しか出土していない貴重なものです。

写真は飾り履を復元したもので、かみつけの里博物館で実物と併せて展示されています。この飾り履はもともと朝鮮半島で発達したものであり、実用物ではなく宝器、あるいは葬儀用の特別品と考えられています。

積石塚古墳と考え併せると、ここ榛名山の周辺には渡来系の人々も集団で住んでおり、古墳時代からここで交流していたのです。

はじめて発見された古墳時代の豪族の館、群馬の名前もここと関係!

はじめて発見された古墳時代の豪族の館、群馬の名前もここと関係!

写真:松縄 正彦

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さらに、保渡田古墳群の近くで、豪族の館が発掘されました。「三ツ寺T遺跡」(MEMO欄参照)です。この館、上越新幹線の工事で見つかったもので、まだ全体の2/3が未発掘なのですが、写真のように、かみつけの里博物館で当時の姿が復元されています。

館は深さ3mの濠に囲まれ、1辺が86mの方形をしています。内部は三重の柵で2つに分かれており、写真左上の区画は生計を支えるゾーン、右下の区画は王が政治や儀式を司ったゾーンで、右下区画の中心にある大型の建物(赤い傘で、貴人が居る事が示されている)は建坪50坪もあり、当時東日本最大の建物だったといわれます。またこの建物の横には“屋根付きの井戸”があり、この井戸は祭祀専用の井戸であったといわれます。

ここは全国ではじめて発見された古墳時代の豪族の館で、この遺跡発見後、全国でいろいろな権力者の屋敷跡が認識されるようになりました。

実はここは崇神天皇を祖とする“上毛野氏(かみつけのし)”に関連した豪族、具体的には“車持氏(くるまもちし)”の館と推定されています。乗り物(輿)を提供する職務をしていた事から、雄略天皇より車持の名を与えられたのです。また、群馬県の“群馬”は奈良時代には“クルマ”と読まれていました。群馬は車持氏の“車”に由来した名前なのです。

さあ、はっきりとしてきました。保渡田古墳群の被葬者はこの車持氏なのです。また、上毛野氏は将軍として朝鮮半島まで行っていることから、前述の積石塚に葬られている渡来人は、この車持氏から招聘された可能性があるともいわれます。

“物”から古墳時代が分かる

いかがでしょうか、雄略天皇時代に活躍した車持氏、この有力豪族の基盤であった地域が、この榛名山東南麗です。この豪族の活躍した社会がここに埋もれていました(ご紹介できませんでしたが、他に水田跡なども出土しています)。

築造当時のままの姿に復元された八幡塚古墳や、貴重な埴輪群など、ここは歴史マニア必見の場所です。出土品などは、かみつけの里博物館に展示されていますのでぜひここも見て下さい。

日本の古墳時代は、文字記録には残っていませんが、この場所で“物”から当時の社会が生き生きと浮かび上がってきます。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/09/10 訪問

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