更新日:2013/10/29 14:49
写真:津田 泰輔
地図を見る高取城へ登るルートは2つある。
一つは車で頂上付近まで登るルート。こちらは車を降りて10分程度で城跡までたどり着くことができるお手軽なコースなのだが、途中から道が狭く、駐車スペースも少ないので注意して行って欲しい。
もう一つは壺阪山駅から歩いていくルート。こちらは約2時間のハイキングコースとなる。
高取城の第1の城門から本丸までの高低差は390m。これは日本最大のもので、さらには山城としては最大の敷地面積を誇る。この広大な城を体感したいならこちらのルートをおススメする。麓の中世の面影が残る城下町の武家屋敷や寺社の横を通り抜け、当時の人々が歩いた道を進んで城に登ることができる。こちらはほぼ登山コースになっているので、しっかりと準備をして行きたい。
どちらにしても最終的にはこの大手門跡にたどり着く。こんな山奥に立派な石垣が残っていることに驚かされることだろう。
写真:津田 泰輔
地図を見る高取城は元々は南北朝時代に築かれていたようだが、本格的に整備されたのは戦国期になってから。豊臣秀長が郡山城主になった際に重臣の本多氏が築いた城で、本丸に天守閣を備え、多数の櫓を備えた本格的な要害となっている。
江戸期になっても城は高取藩の藩庁として存続し、明治6年に廃城になるまで使われ続けてきた。
廃城になってからは約150年といった所だろうが、石垣からは巨大な木々が生い茂り、植物に覆われていく姿は、古代遺跡のような風化具合にも見える。
人の手が入らないと、こうもすぐに自然に飲み込まれていくものなのだろうか。
写真:津田 泰輔
地図を見る城内の道は敵を防ぐために入り組んで造られている。何度も石垣に囲まれた曲がり道を進まされて、容易に天守閣に近づけないような造りになっている。まるで迷路の中を進んでいるようだ。
それもそのはずで、この高取城は江戸期に作られた城主の権威を示すものとして造られたというより、天然の要害を利用して造った実践向きの本格的な山城なのである。
関ヶ原の戦いの直前に、東軍についた本多氏は西軍の大軍に囲まれるが、この高取城に頼って戦い、陥落することは無かった。
さらに幕末には天誅組の襲撃を受けたが、吉村寅太郎率いる約1000人の軍勢をわずか200名の守備兵で撃退した。
まさに実戦も経験した難攻不落の要塞なのである。
写真:津田 泰輔
地図を見る本丸の石垣はひと際高く見上げるほどだが、もっと圧巻なのはその前にある巨木。
その大きさから城がまだ現役だった頃から植えられていたのだろうが、今や城を圧倒する高さまで成長している。
廃城になったあとは、植物が建物の隙間にに入り込んだりして、石垣の崩落が進んでいるという。かなりの山奥にあるため、整備が進まず、自然のままに放置されてきたのだろう。だがそれが自然と歴史遺構が一体となり、なんともいえない良い雰囲気を作り出している。
難攻不落だった高取城も、まさか植物に侵略されるとは思っても見なかったであろう。
高取城の標高は583m。竹田城が353mなので、高取城のほうがずっと高いところに建てられていることになる。
残念ながら周りが木に囲まれているので、その高さを実感できる眺望の良い場所はほとんどない。もし、木がなければ大和平野が一望できる立地にはあるので、奈良県が本気で観光に力を入れるのなら、木をいくつか伐採して素晴らしい景色が楽しめる場所になるだろう。
まあ、色々と問題があって簡単に伐採はできないようだし、伐採してしまうと今の自然と一体化していく雰囲気も失われていくので、なんとも微妙な気もするが…
城が朽ちて植物に覆われて行く姿は、天空の城ラピュタのようにも見える。
今ならまだ人も少なく、山奥に静かに眠る古代遺跡の雰囲気も味わうことができるだろう。
竹田城は有名になりすぎて、ついに有料になってしまったが、こちらは完全に無料。
歴史好きはもちろんのこと、この自然と一体化していく遺跡の雰囲気を体感したいなら、今のうちに訪れてみよう。
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この記事を書いたナビゲーター
津田 泰輔
ブログを書き始めたのをきっかけに関西の秘境巡りを始めて約6年。まだまだ知られていない魅力的な絶景スポットをたくさん発見しました。今までアウトドアとは無縁だった私が手軽に行ける秘境を関西中心に紹介してい…
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