写真:万葉 りえ
地図を見る清水寺から続く産寧坂・二年坂と、八坂神社の奥にある丸山公園とをつなぐ道。現在は御影石を敷き詰めて石畳となったこの道は、この地で晩年を過ごした北政所・ねねにちなんで「ねねの道」と呼ばれるようになっています。
このねねの道の東側に、秀吉とねねを祀っている高台寺があります。広い敷地の中で秀吉とねねが祀られているのは、少し高い位置にある霊屋(おたまや)と呼ばれている建物。霊屋内に施された桃山時代の華麗な蒔絵(まきえ)は、特別に「高台寺蒔絵」と名前が付けられるほどのものです。
その霊屋へと昇っていく渡り廊下は、臥龍廊(がりゅうろう)と名が付けられています。渡り廊下の屋根が龍の背のように見えることが名前の由来なのですが、名もない貧しい農民から天下人へと、まさに駆け上っていった秀吉とねね。龍が天に昇るがごとく進んでいった二人の人生も、この名に重ねられていると思いませんか。
写真:万葉 りえ
地図を見る臥龍楼では、秋になると周りの木々が華やかに色づいた枝を差し伸べます。黄金の茶室をはじめとして華やかなものが好きだった秀吉。関白であった時代の城の中の華やかさとは別物ですが、夫の好みをねねが思いやるように龍の背に鮮やかな色に染まった葉が揺れます。
霊屋と臥龍廊でつながるのが開山堂です。上にある霊屋には秀吉とねねの木像が祀られていますが、開山堂にはねねの兄・木下家定、そして兄嫁の木造が安置されています。生前、秀吉夫婦をかげで支えてきたねねの兄夫婦。今でも当時と同じように妹夫婦を支えているようです。
写真:万葉 りえ
地図を見る秀吉の没後に、ねねは朝廷から高台院という名を賜ります。それを機に思い立ったのが、秀吉の菩提を弔うための寺造りでした。
関ケ原の合戦が終わり、徳川家康が征夷大将軍についたのが1603年。大阪城では豊臣秀頼とその生母・茶々が過ごしており、豊臣方につく大名も少なくはない頃です。また、秀吉とねねに幼少よりかわいがられた福島正則や黒田長政らが、関ケ原の合戦で徳川方についたということもあったでしょう。家康は高台寺の造営に際して、かなりの資金援助を行っています。
そのおかげで寺は荘厳を極めたといいますが、庭もその伽藍にふさわしい造りで小堀遠州の作と伝えられています。ここに祀られた女性の生き様に負けないほど鮮やかな紅が、今も人々を魅了します。
写真:万葉 りえ
地図を見る「高台院湖月尼」と名乗ることになったねね。東山の地形を使って斜面に建物が配置されている高台寺には、その名のように二つの池が作られています。
臥龍廊のほかにも池の上を廊下が渡り、檜皮葺で4本の柱を持つ観月台も設けられています。この観月台、じつは秀吉遺愛のもの。ねねの名に「月」という言葉が入ったのは、秀吉と見た月の思い出からかもしれません。
空に輝く月がこの池にも映ったはず。自然豊かな東山のふもとなのでアオサギが悠々と過ごし、穏やかさもありながら紅葉がひときわ目をひく風景を創り出しています。
写真:万葉 りえ
地図を見る敷地内の高い位置には、竹藪などを抜けると茶室が設けられています。秀吉が切腹を命じた利休が意匠し、伏見にあったものを移築してきたという傘亭と時雨亭。
大坂夏の陣で大坂城とともに散っていった、秀吉の遺児・秀頼と茶々。遠く大坂城が炎上する様子を、ねねはこの茶室のそばから見ていたと伝えられています。
ねねを慕ってこの地を訪問する人も多かったので、この戦の大勢はねねにもわかっていたでしょう。諸行無常とはいうものの、秀吉とともに歩んできた日々は、ねねの心に鮮明なまましまわれていたはずです。
このそばで街を見下ろすときには、そんな歴史を思い出していただければと思います。
史実でご存知のように、たくさんの側室がいたにもかかわらず秀吉の世継ぎとなる子を産んだのは茶々一人。心中ではいろいろな思いが吹き荒れていたのかもしれません。しかし、個人としてよりも、もっと高い位置から時代の流れを見ていた ねね。
そして、秀吉と今も霊屋で寄り添っているのは、ねねなのです。秋が深まったら、ねねの気持ちがあふれ出たような鮮やかな紅に染まる高台寺を訪ねてみませんか。
ねねが開創した寺は、1624年に建仁寺の三江和尚を開山としてむかえてから高台寺と号するようになりました。建仁寺は風神雷神図などの絵画でも有名で、祇園のほうへ向かってここから近い場所にあります。またねねが住居としていた圓徳院は高台寺のすぐそばです。どちらも下記関連MEMOを参考にぜひどうぞ。
住所:京都府京都市東山区高台寺下河原526
アクセス:バス停 東山安井から徒歩5分
2018年8月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
(2025/2/12更新)
- 広告 -