写真:菊池 模糊
地図を見る古代ギリシアや古代ペルシア帝国が勃興する以前、その中間のアナトリア(現・トルコ)に、紀元前17世紀から紀元前12世紀にかけて強大な王国があり、エジプトと覇を競っていました。それがヒッタイトです。史上はじめて鉄器を使用し、絶大な武力をもってオリエント世界に君臨しました。しかし、突然の滅亡後は歴史の彼方に忘れ去られ、その都の場所さえ不明となっていました。
やがて、3000年の時が流れ、19世紀になって旅行者によりボアズカレ近郊で大きな遺跡が発見され、20世紀にドイツの考古学者の発掘調査が行われ、ヒッタイトの遺跡であることが確かめられました。聖所や神殿跡、城壁跡、貯蔵庫跡、王城跡、市街跡などが明らかになり、その重要性により、1986年にユネスコの世界遺産に登録されました。以降、注目を浴びつつあります。我々は今、その遥かなる古代文明の栄華の跡に立つことができるのです。
トルコの首都アンカラより東に145kmのボアズカレ近郊にあるヤズルカヤは、トルコ語で「碑文の岩場」を意味し、ヒッタイト時代には最も重要な聖所として、崇められていました。
まず祭殿跡の遺跡がありますが、現在は礎石だけが残る状態となっています。祭壇跡の奥に大きな岩場があり、便宜上、広い空間のあるほうを大ギャラリー、狭くて深い割れ目のほうを小ギャラリーと呼んでいます。ここには様々なレリーフが残されており、特に小ギャラリーのほうは鮮明な作品が多くみられ、きわめ重要です。中でも、とんがり帽子をかぶった黄泉の国の12神像は、鮮明な浮彫で、神々が並んで行進しているように見える印象的なものです(写真参照)。
写真:菊池 模糊
地図を見るヤズルカヤには、多くの神々が描かれており、当時は多神教の世界であったことが分かります。主神テシュプとその配偶神ヘバト、息子のシャルマ神、さらには有翼の神、剣の神、太陽神、月の神、冥府の神なども見られます。男性神はとんがり帽子に丈の短いスカート状の衣類を身に着けており、女性神は円筒状の被り物に長衣姿が多いようです。
神のレリーフは、ほとんどが身体は正面を向いて、顔は横を向いて刻まれており、これがヒッタイトの正式な様式と考えられます。バビロニアやエジプトの彫像とも似ている部分もあり、後のペルシアなどにも影響を与えました。古代オリエント世界の文化の交流は、想像以上に活発であったのです。
ヤズルカヤ遺跡には、神だけではなく現実の王の姿も描かれており、その代表的なものがトゥドハリヤ4世を抱くシャルマ神のレリーフです(写真参照)。これは、王が死んで神に抱かれて冥界に旅立つ姿ではないかとも考えられ、この場所がヒッタイト王の葬儀の際に使われていたとする説が有力です。
ヒッタイトの遺跡は、エジプトのような乾いた砂漠地帯ではなく、高度1000m以上の山岳地帯で風雨に晒される場所にあるため風化が進んでいますが、それでも3000年以上前の浮彫が多く残されていることが素晴らしいです。ヒッタイト帝国の隆盛していた当時は、さぞ見事な装飾が施された岩壁と神殿が佇立していたことでしょう。
写真:菊池 模糊
地図を見るヤズルカヤの西に巨大な城塞都市遺跡のハットゥシャがあります。古代ヒッタイト帝国の首都だった場所で、標高1000〜1236mの山の斜面に位置しています。ここは、文明は大河のほとりに生まれるとという我々の常識をくつがえす驚くべき遺跡です。
遺跡に入場して、まず最初にあるのが王都の大神殿遺跡です。規模が大きく神殿の中央を100近い貯蔵室が取り囲んでいたようですが、現在は礎石が多数並んでいるだけなので、当時の様子を明確に想像するのは困難です。ただひとつ、無傷で残っているのは、宗教行事を行っていた堂宇中央に鎮座しているグリーンストーンです。写真をご覧ください。中央にある四角い石がグリーンストーンで、その背後に広がる大神殿遺跡と、色合いの違いが一目瞭然です。
当時、ヒッタイトはここハットゥシャを首都として、西はアパサ(現在のエフェス)から東はカデシュ(現在のシリア南部)まで支配し、南の強国エジプトと係争していました。紀元前1274年、カデシュにおいて大きな戦争が行われた後、ヒッタイトとエジプトの間で平和条約が締結されましたが、その事実を楔形文字で記した粘土板が、ここハットゥシャから出土したのです。これが世界最初の平和条約とされ、レプリカが平和を理念とする国連本部ビルに飾られ、2001年にユネスコ記憶遺産に登録されました。
そして、和平の証として、ヒッタイトの王女がエジプトのラムセス2世に嫁ぎ、ラムセス2世からは巨大な宝石岩であるグリーンストーンが贈られたのです。その3200年以上前の時代から、グリーンストーンは霊力のある石として崇拝され、誰も破壊することも持ち去ることもできない不思議な存在感を示し続けてきました。現在でも、パワースポットとして多くの観光客がこのグリーンストーンに触れて、御利益にあずかろうとしています。ぜひ、訪問され、なぜか温かく感じるこの石に手のひらを当てて古代からの力を感じてみてください。
写真:菊池 模糊
地図を見るハットゥシャ遺跡は、北が低く南が高い広い谷に位置し、東〜南〜西に尾根のある防御に優れた形になっています。ここが、ヒッタイトの首都に選ばれると、尾根上に外周6km強の城壁が築かれ全体を取り囲み、大きな城塞都市として機能していました。
北側低地のグリーンストーンのある大神殿遺跡の一帯が「下市」と呼ばれ当時の住居跡もあります。ここから南西に向けて、現在は整備された急な道路を上っていくと「上市」と呼ばれる山の手の遺跡跡に至ります。この上市の最西にある城壁の門がハットゥシャのシンボルとして有名な「ライオン門」です。
写真のように、向かって右側のライオンは古いオリジナルで、左側のライオンの顔は破損していたため復元された新しいものです。本来は上部を巨大な石垣アーチ壁に取り囲まれたトンネル状の強固な門で、門扉は一説によるとヒッタイトらしく鉄製であったとのことです。このライオン像は城壁の外側を向いており、城壁内に悪霊が入るのを防ぐ役目を持っていました。また、はじめてここを訪れた者に対しても、圧倒的な威圧感を与えていたと想像されます。
ハットゥシャに入るのは、北側の谷の入り口以外では、この南西尾根にあるライオン門と、南側頂上尾根にあるスフィンクス門と、南東尾根にある王の門の三か所だけでした。いずれも強固な城壁に守られており、しかも外側は深い谷になっており、外部から侵入するのは非常に難しかったようです。ハットゥシャが、オリエント最強とうたわれたヒッタイト帝国の精強さを象徴する本格的城塞都市であったことが分かります。
写真:菊池 模糊
地図を見るライオン門からさらに南へ上っていくと、標高が1236mとハットゥシャでの最も高い部分に、スフィンクス門があります。写真のように、門の両側のスフィンクスの像は、有翼人面で身体はライオンの立った姿勢に作られています。顔はややふっくらしており女性的な感じがします。このスフィンクス像はレプリカで、オリジナルは海外流出などの紆余曲折があったものの現在はボアズカレの博物館に収蔵されています。
エジプトのギザの大スフィンクスは座った姿勢で翼はありません。有翼で女性の顔をしたスフィンクス像は、古代オリエント世界によく見られるもので、ここハットゥシャのスフィンクスもその系統に属すると考えられます。また、嘴を持つ鳥のような頭部のスフィンクスも多く、ペルシアやギリシアのグリフィン像系にも通じるものがあります。アジアの狛犬やシーサー文化にも影響を与えた可能性もあります。このスフィンクス門を見ると、こうした各種のスフィンクスが世界の広い文化交流の基盤にあることが実感されます。
スフィンクス門の近くに、地下道(イェルカプ)があり、城壁の中のトンネルを通って外に出ることができます。結構、本格的なもので、抜け道というには規模が大きい不思議な遺跡です。戦争など非常時に兵士を繰り出すための通路とする説や、スフィンクス門は宗教的儀式用の門で通常はこの地下道を出入り口に使ったとする説などがあり、詳しくは判明していません。ぜひスフィンクス門と地下道を体験して、ヒッタイトの古代史の謎に挑戦してみてください。
紀元前17世紀から約500年に渡り、鉄器文明を擁してオリエント世界に勇名を轟かせたヒッタイトですが、紀元前12世紀の終りごろ、突然滅亡しました。これは「前1200年のカタストロフ」と呼ばれる大きな災厄で、古代エジプトからアナトリア半島、ギリシア本土に至る東地中海世界を震撼させました。中でもヒッタイト帝国とミケーネ文明の崩壊が最も大きな出来事です。原因は「海の民」と呼ばれる異民族の侵入によるとされてきましたが、急激な天候異変による飢饉や巨大地震説も有力で、いまだ結論が出ていません。
ヤズルカヤ遺跡やハットゥシャ遺跡に立って、我々はこの失われたヒッタイト帝国の歴史に思いを馳せます。栄枯盛衰は世の常とはいえ、ここまで巨大な当時の文明国が一瞬に滅んでしまい、記憶の彼方に忘れ去られてしまった事実に、驚くとともに茫漠たる思いにとらわれます。名作長編アニメ『天は赤い河のほとり』の舞台でもありますので、トルコに行かれた際は、ぜひこの古代文明の跡をご覧なり、遥かなる歴史世界を旅してください。
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(2024/12/13更新)
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