日本武尊と弟橘媛の伝説の地「木更津」“吾妻”と歌う背後には隠れた深い意味があった!

日本武尊と弟橘媛の伝説の地「木更津」“吾妻”と歌う背後には隠れた深い意味があった!

更新日:2016/11/17 15:07

松縄 正彦のプロフィール写真 松縄 正彦 ビジネスコンサルタント、眼・視覚・色ブロガー、歴史旅ブロガー
日本武尊が東国征伐に向かう途中、妃の弟橘媛が入水する事で荒れた海を鎮め、海を渡る事ができたという伝説があります。千葉県にはお二人にちなんだ“恋のパワースポット”など伝説に関連する多くの地があります。しかし、尊が媛を偲んだ“吾妻”という言葉の背景には隠された深い意味があったのです。千葉県木更津で、歌を楽しみながら男女の絆を辿ってみませんか。

木更津のシンボル「きみさらずタワー」

木更津のシンボル「きみさらずタワー」

写真:松縄 正彦

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木更津市の太田山(おおだやま)公園、ここにあるのが市のシンボル「きみさらずタワー」(写真)です。

伝説の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東国征伐に向かおうと浦賀水道(走水の海)から上総に船で渡ろうとしたときに、波が荒れて難儀しました。この時、妃の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海中に入り、海神を鎮める事で、無事に上総にたどりついたのですが、亡くなった媛を思い、尊は何日もその場を立ち去る事ができなかったといわれます。

媛が最後に歌ったのは、相模の野で火が燃え上がっている中で私の事を心配してくれた、それが忘れられないという意味を込めた“さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも”という歌でした。
さすがの尊(“君”)もショックだったのでしょうか、この地を“去る”事ができなかったといわれます。「きみさらずタワー」はこの“君去さらず”に由来した名前なのです。また尊は、ここ太田山公園の地で海をながめ媛を偲んだといわれています。

写真のように「きみさらずタワー」の上にはお二人の像が立っておられますが、このタワーに登り、周辺をグルリと一望する事ができます。東京湾にあるアクアラインPA「海ほたる」や東京スカイツリー、また晴れていれば富士山や横浜のランドマークタワーなども見る事ができます。ここは、尊が海を眺め媛を偲んでいたというのがよく分かる場所です。

またこの公園ですが、春には桜の名所として地元で有名です。まずはこの公園から弟橘媛や日本武尊を巡る旅をスタートしましょう。

橘神社〜ここは恋のパワースポット〜

橘神社〜ここは恋のパワースポット〜

写真:松縄 正彦

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「きみさらずタワー」の下、海側にあるのが「橘神社」です。小さな神社ですが、ここは弟橘媛を慕って建てられた神社といわれます。
またこの神社がある地は、二人の強い絆から「恋の森」といわれた地で、この神社は縁結びのご利益があるといわれているのです。まずはこの神社に参拝し、ご縁成就の祈願をしましょう。

吾妻神社〜弟橘媛の袖や鏡と関係〜

吾妻神社〜弟橘媛の袖や鏡と関係〜

写真:松縄 正彦

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弟橘媛が海に入水した数日後、媛の“袖”の1つが近くの海岸に漂着したといわれます。この袖を納めて建てられたのが、我が(吾)妻の神社「吾妻神社」です。また、昔ここには小池がありました。この池に媛が使った“鏡”を沈めたとの伝承も残っており、この池は「鏡ヶ池」といわれています。神社境内、本殿に向かい右手側にこの池があります(写真)。

このように当社は、媛が亡くなった後、残された袖や鏡という媛の身の回りの品物と関係した神社なのです。この事情を知っていると、少しうら悲しさが伝わってきます。
また、鏡ヶ池には、“池の澄んだ水で尊や従者達が喉を潤し、疲れ果てた身なりを正した”との伝承も残されています。これは媛が亡くなった直後のことでしょうか、あるいは気を取り直して東国に出発する時の事でしょうか、詳細は分かりませんが、尊が気持ちを奮い立たせようとした様子が伺える伝承です。

ところで、漂着した媛の袖を見た尊が読んだ歌に「君去らず 袖しが浦に 立つ波の その面影を みるぞ悲しき」があります。
この歌の“君去らず”から「木更津」が、また“袖しが浦”から「袖ケ浦」という地名ができたともいわれます。また、木更津の近くに「富津」という地名がありますが、古くは「布留津」と記し、これはヒメの袖(“布”)が流れ着いて、尊がこの地(“津”)に“留”まった事に由来するという説もあります。

また衣には袖が左右あります。もう片方の袖は、習志野市の袖ケ浦に漂着したともいわれています。さらに富津市にも同名の吾妻神社がありますが、この神社は媛の御“櫛”がご神体と伝わっています。
真偽はいろいろあるのでしょうが、これらは、この地に弟橘媛と日本武尊の伝説が広く伝わっている事の証なのです。

日本武尊を祀る「八剱八幡神社」

日本武尊を祀る「八剱八幡神社」

写真:松縄 正彦

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弟橘媛だけでなく、この地には日本武尊が祀られている神社があります。写真の「八剱八幡神社」です。
媛が亡くなられた後、しばらくこの地におられた時に、尊は当社に滞留されたといわれます。また媛の伝説からでしょうか、当社は東京湾中央部の安全を守護する神様としても氏子から慕われています。

当社の名前の“八剱”は、昔このあたり一帯をこの名で呼んでいた事に由来するといわれるのですが、八や剣というと、なんとなくスサノオノミコト(須佐之男命)を思い出す方がおられると思います。調べてみるとなんと、須佐之男命も当社に祀られていました。

また当社は、中世に入り八幡神を合祀したといわれます。八幡神というと軍事の神で、源氏との関係を連想させますが、実は当社の社殿は鎌倉幕府を開府する時に“源頼朝”が寄進したものです。千葉氏の助けで平家討伐をするときに当社に戦勝祈願をした事がご縁の始まりとか。境内には頼朝がお手植えされたといわれる“蘇鉄(ソテツ)”の大樹も茂っています。

ところで木更津のご当地ヒーローをご存じでしょうか?“鳳神ヤツルギ”です(MEMO欄参照)。このヒーローは当社の“祭神の力で変身”するのだそうです。写真の神社名が記された扁額の上に鳳凰が彫られていますが、これもヒーローの名前に関係しているのかもしれません。またヤツルギを助ける戦士“天神キサラ”は当社の巫女という設定になっています。

日本武尊や源頼朝、また鳳神ヤツルギなどのように強く育つようにという親心があるのでしょうか、当社には七五三のお参りされる方が多いようです。

「吾が妻よ・・」に隠された意味〜日本武尊の心情は?〜

いかがでしょうか、千葉県には日本武尊と弟橘媛にまつわる伝説や関係する場所が多数あります。尊は天皇から命じられた東国征討を終える帰途、足柄山で、亡くなった媛を偲び、三度もためいきをつき「吾妻はや(ああ吾が妻よ)・・」と発せられたとか。これが山の東の国(つまり吾妻の国)をアズマ(東)と呼ぶ由来とも伝えられています。

ところで、媛が入水するきっかけは、日本書記によれば、走水の海を尊が“小さい海”などと言った(馬鹿にした)事が原因で、“怒った海神が海を荒らした”と、記されているのです。

古事記と日本書紀では同じ場面でも状況が異なって記されているのですが、上記の記述から考えると、お二人の関係は中々複雑で、“単なるロマンスばかりでは無い”様です。尊が何度も「吾妻よ・・」と歌っている背景には、後悔や悔しさなど色々な意味が含まれているのかもしれません。

“吾妻”という言葉に隠された男女の絆、後悔・悔しさなど大人の事情を伝説の地、ここ木更津で、辿ってみませんか?伝説に記された言葉の意味・その受け取り方など、従来の見方が少し変わってくるはずです。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/10/29 訪問

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