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写真:乾口 達司
地図を見る以仁王(もちひとおう)は後白河天皇の第3皇子で、仁平元年(1151)に誕生しました。王の少年時代には保元・平治の乱に勝利した平家が、当時、院政をおこなっていた後白河法皇と結びつき、大きな力を持ち始めていました。その権勢はやがて法皇を凌駕するまでになり、治承3年(1179)には、平家の大軍によって都が占領されるなか、法皇が洛南の鳥羽殿に幽閉されるといった事態にまでいたります。いわゆる「治承三年の政変」です。
この折、王もみずからの所領を没収されており、それが平家打倒の意志を持つにいたった原因の一つと考えられます。治承4年(1180)4月、王は平氏追討の令旨を発し、平家打倒の意志を鮮明にします。翌月には源頼政と呼応して園城寺で蜂起しますが、平家の圧倒的な力の前に敗走。南都の寺社勢力を頼ろうと大和国を目指して落ち延びる途中、南山城で討ち取られました。
写真は木津川市にある高倉神社。高倉宮とも称された王をまつる神社であり、社名もそれにちなんでいます。王の死後、村人によって建立されたとされますが、ここからは王が地元民からいかに慕われていたかがうかがえるでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る高倉神社の境内には、以仁王の陵墓も残されています。写真は高倉神社の参道と平行する形で設けられている陵墓の参道。入口には王の名が刻まれた石柱も立っています。
写真:乾口 達司
地図を見る参道を奥へと進むと、やがてご覧のような鳥居が立つ区画に突き当たります。この内側に王の陵墓があります。現在は宮内庁によって管理されており、皇族の陵墓ということもあって、区画内への立ち入りは禁じられています。
写真:乾口 達司
地図を見るしたがって、陵墓がどのような形で残されているのか、鳥居の立つ正面からは、内部の様子をなかなかうかがい知ることは出来ません。しかし、ご安心あれ。高倉神社の拝殿前の石段からは、写真にあるのように、その様子を俯瞰的に眺めることが出来ます。そこからは直径数メートル、高さ1メートル足らずの墳丘であることがうかがえますが、そのささやかな規模が王の悲劇性を物語っているともいえ、かえって感慨深く感じられるのではないでしょうか。
写真:乾口 達司
地図を見る高倉神社の南方、JR奈良線沿いの田畑のなかには、ご覧の塚も残されています。こちらは「筒井浄妙塚」と呼ばれており、王に付き従って活躍した園城寺の僧・筒井浄妙(つついじょうみょう)の墳墓と伝えられています。『平家物語』では、宇治川の合戦に際して、浄妙が先陣を切って活躍する様子が描かれていますが、ここに塚があるということは、浄妙も南都へと落ち延びる王に同行し、同じ場所で亡くなったことになります。
現在、塚は王の陵墓に付属する陪塚(ばいちょう)として、宮内庁によって管理されています。皇族でもない浄妙の塚が管理の対象となっているということは、こちらに王が埋葬されているかも知れないと宮内庁が想定しているからかも知れませんね。
写真:乾口 達司
地図を見るJR奈良線の西側には、阿弥陀寺というお寺も存在します。高倉山という山号からもうかがえるように、阿弥陀寺は王の死に際して葬儀などをとりおこなった寺院とされています。こちらもあわせてご参拝下さい。
写真:乾口 達司
地図を見る阿弥陀寺の南方の辻には、ご覧の案内板も立てられています。矢印の方向へ進めばすぐに高倉神社および王の陵墓に到着します。この辻を南北に走っているのが、山城古道。昔からの街道です。宇治川での合戦に敗北した王はこの道を通って南都へ向かっていたのでしょう。
平家打倒の先駆者というべき以仁王の陵墓がどのようなものか、おわかりいただけたでしょうか。JR奈良線および国道24号線の近くに位置しているため、鉄道でもお車でもアクセスは快適。王の陵墓にお参りし、その悲劇的げな末路に思いを馳せてみて下さい。
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