写真:乾口 達司
地図を見る現在、広陵町では、『竹取物語』が、町おこしの起爆剤として、積極的に活用されています。県道14号線を馬見丘陵公園方面に向かってみましょう。高田川にかかる橋の手前に「はしお元気村」という複合施設が見えてきます。その一角には、ご覧のような、巨大なかぐや姫も立っているんです!その高さは7、8メートルもあり、手前の飲食店と比べると、その大きさには度肝を抜かれます。かぐや姫の可憐な姿をイメージしてここまでやってきた人は、シュールな印象さえ抱くのではないでしょうか。その大きさからも、『竹取物語』に対する広陵町の意気込みの強さが感じられますね。
写真:乾口 達司
地図を見るもちろん、この地が『竹取物語』ゆかりの地と見なされていることには、根拠があります。その一例が、写真の讃岐神社(さぬきじんじゃ)です。讃岐神社は『日本三大実録』のなかで「正六位上散吉大建命神」「散吉伊能城神」と記されており、古代、讃岐国出身の斎部(いんべ)氏が当地に移り住んだことから、出身国の呼び名にちなんで「散吉」「讃岐」と呼ばれるようになりました。
かぐや姫を養育する「竹取の翁」が讃岐造(さぬきのみやつこ)と呼ばれていることに留意してください。昭和29年、大阪市立大学の塚原鉄雄氏は、「竹取の翁」が讃岐造と呼ばれていること、その名を持つ讃岐神社が広陵町に存在することにもとづき、翁が広陵町に住んでいたという学説を発表しました。
この塚原氏の学説にもとづき、広陵町では、『竹取物語』に登場する貴族が7世紀後半に実在した人物をモデルにしていること、当時の都が飛鳥地方にあり、讃岐造の暮らした地が飛鳥地方からそれほど離れてはいなかったと考えられること、古来、この地が竹の産地であったことなどから、讃岐神社の付近一帯が『竹取物語』の舞台であったと推定しています。
讃岐神社のほかにも、かぐや姫の名付け親となった「みむろとのいんべのあきた」の暮らした地と考えられる「みむろの丘」も、付近に残されています。
写真:乾口 達司
地図を見る讃岐神社に隣接する形で、かぐや姫にちなんだ「竹取公園」という名前の公園も広がっています。その公園の入口付近にあるのが、写真のオブジェです。よく見ると、巨大な竹の筒を模しており、その内部には、かぐや姫の誕生シーンが描かれていることがわかります。このオブジェ、いったい何だと思いますか?実はこれはトイレです。オブジェの裏手にトイレの入口が設けられており、男子トイレ、女子トイレの表示も古代の男性貴族、女性貴族のイラストで表されています。『竹取物語』の候補地ならではの、ユニークな発想ですね。
写真:乾口 達司
地図を見る竹取公園の一角には、かぐや姫にちなみ、竹林コーナーも設けられています。竹林の脇には写真のようなパネルが点在しています。パネルでは『竹取物語』の粗筋がイラスト入りで紹介されていますが、このイラスト、どこかで見た記憶がありませんか?イラストの作者は、あの大物女性漫画家・里中満智子さんなのです。里中満智子さんまでが、広陵町=『竹取物語』舞台説に協賛されているんですね。里中満智子ファンには、ぜひ、訪れていただきたいスポットです。
『竹取物語』を完全なフィクションであると思い込んでいた人たちには、目から鱗の内容だったのではないでしょうか。広陵町では、毎年秋、かぐや姫まつりというイベントも開かれており、県外から多くの参加者も集めています。その知名度はこれからさらに高まることでしょう。かぐや姫や「竹取の翁」は果たして実在したのか?スタジオジブリの『かぐや姫の物語』が公開されるこの時期、実際に広陵町のかぐや姫スポットを訪れ、その謎をご自身で探究してみては、いかがでしょうか?
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(2024/4/18更新)
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