「姫路城」の魅力は天守だけじゃない!武士のリノベ術に括目せよ

「姫路城」の魅力は天守だけじゃない!武士のリノベ術に括目せよ

更新日:2017/03/15 12:03

浦賀 太一郎のプロフィール写真 浦賀 太一郎 週末トラベラー
もはや説明不要の世界遺産「姫路城」。その「本当の白さ」は平成の大改修を経て現代に甦り、人々を魅了し続けています。ですが、姫路城の魅力は、実は天守のほかにも沢山あるのです。
今回は、あの美しすぎる天守からあえて視線を落として、当時の武士たちの卓越したリノベーションやリユースの技術を垣間見ることのできる遺構を紹介します。草木一本、石ころ一個見逃せないのが、本当の姫路城の魅力なんですよ!

黒田官兵衛・羽柴秀吉時代の築地塀をリユース!

黒田官兵衛・羽柴秀吉時代の築地塀をリユース!

写真:浦賀 太一郎

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「リノベーション(リノベ)」とは既存のシステムを一部利用したり、必要な部分を破壊して造り直すといった意味の言葉です。また、「リユース」とは再使用のことで、そのままの形でもう一度使用するという意味の言葉です。

姫路城は築城から現代まで約650年の月日が流れていますが、最初に大規模なリノベを行い、元々は砦程度の機能であった姫路城を本格的な城郭に造り変えたのは、羽柴(豊臣)秀吉の軍師・黒田官兵衛の祖父である、黒田重職だったと言います。

姫路城は官兵衛の時代に秀吉に引き渡されますが、その頃に建造されたとも言われる、「油壁(写真)」と通称される築地塀が残っています。
白漆喰の美しい姫路城にあって、違和感バリバリの油壁ですが、高さが3m近くあり、漆喰造りの塀では不可能な高さとされ、天守近くの設備として抜群の防御力を発揮します。姫路城をほぼ現代の形に完成させた池田輝政は、その機能性を重視し、この油壁をリユースしたのです。
油壁は、「水の一門北方築地塀」という名称で、国の重要文化財に指定されています。

秀吉時代の石垣をリノベーション!

秀吉時代の石垣をリノベーション!

写真:浦賀 太一郎

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写真の水堀は、今でこそ「三国堀」と呼ばれる四角形の水堀ですが、よくよく見ると、真ん中から左側にかけて石垣が逆ハの字になっている部分があるのがおわかりでしょうか?いかにも両側が石垣の端っこだったような雰囲気ですが、実はその通りで、秀吉の時代は、逆ハの字の部分が曲輪の奥まで続いていた水堀だったのです。

秀吉時代の石垣をリノベーション!

写真:浦賀 太一郎

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こちらの石垣は、「リの二渡櫓」下の石垣ですが、真ん中を見ると、上からやや左斜め気味に石積みの分かれ目のような線が入っています。
これも三国堀の石垣と同じで、右側が元々秀吉が造営した石垣で、左側が池田輝政が増築したものであると伝えられています。

三国堀の石垣にしても、この石垣にしても、輝政の見事なまでのリノベ志向を垣間見ることができる、貴重な遺構なのです。

そこまでやる?古墳の石棺や石仏までリユース

そこまでやる?古墳の石棺や石仏までリユース

写真:浦賀 太一郎

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こちらは天守の真下・備前丸へと続く重要文化財の備前門ですが、門の手前の石垣の端っこの四角い石垣をご覧ください。これ、実は近隣の古墳から持ってきた石棺なんです。同じく、備前門の向かって右手、縦の長方形の石垣…。こちらも同様に石棺だったのです。

備前門の石垣は輝政時代のものですが、秀吉時代にも石垣不足で困り果てた挙句、町人から石を徴収し、貧しいおばあちゃんから石臼を貰って、大喜びで天守の石垣に組み込んだという「姥が石」エピソードがありますが、けっこう見境なく様々な石を使っていたことが、よくわかる遺構です。ちなみに姥が石の伝説の真偽には諸説ありますが、今でも前述の油壁の近く、天守の石垣に見ることができますよ。

そこまでやる?古墳の石棺や石仏までリユース

写真:浦賀 太一郎

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もう驚かないかもしれませんが、「はノ門」を支える台座の石は、お寺の石燈籠の基礎を転用しております。他にも、石仏や墓石といったものまで、城内の石垣や石積みに、惜しげもなくふんだんに使用されているんですよ。
これらの「転用石」は、既存のリノベーションやリユースといった現代用語の枠組みを超えた発想なのかもしれませんね。

無料区間でも見られる黒田官兵衛ゆかりの石垣!

無料区間でも見られる黒田官兵衛ゆかりの石垣!

写真:浦賀 太一郎

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ここまで有料区域の遺構に焦点を当ててきましたがここからは無料でも楽しめる遺構を紹介していきます。姫路城三の丸広場からすぐ、上山里下段の石垣は、天正8(1580)年、羽柴秀吉が姫路城を改築したときに、黒田官兵衛の普請で積まれたとされています。

この時期の石垣の特徴は、自然石をダイナミックに用いた「野面積」という技法で、石積みの技術の原初的なものです。また、高々と積み上げる技術が未熟なため、写真の様に、上下の石垣が分かれる、二段構えの構造になっています。
このように、一見時代遅れとなってしまった石垣技術でも、次代の池田氏、榊原氏、酒井氏など目まぐるしく変わった城主たちも、城郭の美しさのアクセント、そして一番の理由は経費削減のためにリユースし、幕末そして現代へ姫路城を残してくれたのです。

こんなところにも!姫路城の面影を都市リノベに有効活用

こんなところにも!姫路城の面影を都市リノベに有効活用

写真:浦賀 太一郎

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姫路城の遺構は、お城から少し離れたところからも見つけることができます。姫路駅から大天守を眺めつつ大手前通りを歩いていると、うっかりすると見逃してしまうほどに、ひょっこり「姫路城の中濠跡」が出現します。

現在は国道2号線になっている部分は、かつては姫路城の中濠だったんですね。お濠は埋めてしまいましたが、腰巻の石垣で補強された土塁は、当時のまま残され、都市景観の一部となって現代に残っているのです。何百年もの歴史を越えた、壮大なリノベですね!

色々な見方で名城・姫路城をめぐろう!

いかがでしたか?当時の武士のリノベーション&リユース術。そして、その思考は現代にも受け継がれていることが分かったのではないでしょうか。日本人がリサイクル、リノベーションといったことが得意なのは、歴史の中で育まれてきた「もったいない精神」が息づいているからなのかもしれませんね。

天守が美しい世界遺産の姫路城。天守を見上げるのも良いですが、時々視線を落としてみれば、もっと深く広く姫路城を楽しむことができるんですよ!

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/03/30 訪問

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