写真:いなもと かおり
地図を見る奥羽藤原氏の三代目・秀衡が政治を行った政庁跡だったとされる「柳之御所」。
発掘調査によって堀、池、掘立柱などの遺構や土器、陶磁器などの遺物が発見されました。その量は平泉にある遺跡群のなかでも群を抜いた量と質だったと言われています。また保存状態も良好で、平泉の文化遺産のなかでもとくに重要な遺跡ということから、国の史跡にも指定されました。
写真:いなもと かおり
地図を見る鎌倉時代の『吾妻鏡』にも「平泉館(ひたいずみのたち)」の名で登場し、平泉の中心的存在だった柳之御所は、平成22年4月より修復整備を経て公園となっています。
それにしても建物がないと見どころがわからない! と思っている方のために、柳之御所を読み解く3つのポイントを確認していきましょう。
写真:いなもと かおり
地図を見る柳之御所の区画は、この大きな堀で区切られています。堀は水のない通称「空堀(からぼり)」。敵が侵入してきた時に、落下すると大きな衝撃を受けるようにわざと水を入れておりません。
堀の長さは全長500mにも及び、その全貌は今後明らかになっていくでしょう。発掘調査の結果、内側の堀は最大で幅14m、深さは4mにもなります。堀を越えて行き来するために、当時は橋が掛けられていたそうです。
写真:いなもと かおり
地図を見るお城というと天守があるような立派な近世城郭をイメージすると思いますが、天守が誕生したのは16世紀の後半頃だろうと言われています。当然、平安時代には天守はなく、空堀で防御しているこの館も(広義の意味で)お城の一種だったのです。
写真:いなもと かおり
地図を見るちなみに、柳之御所は政治の場。秀衡の住まいは南側に接する伽羅御所(きゃらのごしょ)にあり、橋や道路でつながっていたそうですよ。
写真:いなもと かおり
地図を見る現在は建物の跡は残っておりませんが、広場の中心には2つの大型建物が建立されていました。「西の建物」は東西11m・南北14m、庇を持つ格式の高い建物だったようです。「東の建物」は、さらに長い南北25mの建物でした。
写真:いなもと かおり
地図を見る2つの中心建物の近くには池があり、これら一体で儀式が執り行われて空間だったようです。ちなみに、建物や園池を区画するためには板塀が使用されていたことも発見されました。
写真:いなもと かおり
地図を見る2009年の発掘調査までに69個の井戸が見つかりました。深さは5 m以上のものもあり、井戸内部からは陶磁器やかわらけ、印章(むらいん)、木製品などが発見されています。しかも!当時の最高級品「青白磁椀」が発見されたということは、奥州藤原氏の栄華が証明されたわけですね。
写真:いなもと かおり
地図を見るちなみに、井戸から陶器が出土する理由は、井戸が枯れてしまい放棄する際「井戸鎮め」の儀式で投下していたためでした。また井戸が使用されなくなってからは廃棄穴としても利用されています。
写真:いなもと かおり
地図を見るこちらはトイレ。汚物廃棄穴は40カ所ほど見つかっています。中心部分で排泄された汚物は、離れたところにある大きな穴に運ばれていたようです。廃棄物処理の専門者もいたのかもしれないと想像すると、彼の肩にそっと手をおいてあげたい気持ちになりますね。
いかがだったでしょうか? 秋の紅葉、春の桜、たくさんの人が訪れる平泉ですが、中尊寺や毛越寺の賑わいとはうらはらに、ひっそりと観光客を待っている「柳之御所」。公園化されて今春で7年目を迎え、その知名度も軒並み上昇していくことでしょう。併せて、隣接した柳之御所資料館も訪れてみてください!
栄華を極めた奥州藤原氏の政治の中心地。平安時代にこの地に立った権力者に会いにでかけてみませんか? 国指定史跡・柳之御所がおすすめです。
この記事の関連MEMO
- PR -
トラベルjpで250社の旅行をまとめて比較!
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
(2024/11/6更新)
- 広告 -