"民俗学の父"を育んだ!茨城・利根町「柳田國男記念公苑」

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"民俗学の父"を育んだ!茨城・利根町「柳田國男記念公苑」

"民俗学の父"を育んだ!茨城・利根町「柳田國男記念公苑」

更新日:2017/04/06 16:47

井伊 たびをのプロフィール写真 井伊 たびを 社寺ナビゲーター、狛犬愛好家

茨城県利根町にある「柳田國男記念公苑」は、柳田國男が少年時代を過ごした「旧小川邸」の母屋が再現されたもの。町民交流の場として、その母屋を開放し宿泊施設としても利用されている。また、國男少年が書物を乱読したという「小川家の土蔵」は、当時のまま残されていて、「資料館」として柳田國男の書物をはじめ、國男に纏わる資料が多数展示されている。この地での様々な体験が、後に國男を民俗学の道に、駆り立てたのである。

利根町立「柳田國男記念公苑」は、國男の第二の故郷にある

利根町立「柳田國男記念公苑」は、國男の第二の故郷にある

写真:井伊 たびを

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日本の民俗学の父と称される「柳田國男」が、まだ松岡少年(旧姓)だった頃のこと。明治20年(1887年)、生まれ故郷の兵庫県福崎町から、この地(利根町布川)に引っ越してきて過ごしたことがある。

小川家にはすでに兄の鼎(かなえ)が、その離れを借りて医業を営んでいて、そこへ引き取られたのである。この地での寄留は三年足らずだったが、その間に見聞きしたことが、やがて民俗学への開眼につながったと言われ、利根町が柳田國男の「第二の故郷」といわれる由縁でもある。

ここ利根町立「柳田國男記念公苑」は、その当時の小川邸宅の母屋を忠実に再現し、平成4年(1992年)に建てられた。

復元された「旧小川家」は、町民交流の場にもなっている

復元された「旧小川家」は、町民交流の場にもなっている

写真:井伊 たびを

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母屋は集会室6室に、四畳の和室と厨房を備えており、町民交流の場として開放され、茶、華道や琴による子供の体験教室や、各団体によるサークル活動、また宿泊施設としても利用されている。

復元された「旧小川家」は、町民交流の場にもなっている

写真:井伊 たびを

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庭先に茂るヤマモモの大木は、柳田國男が東京都北多摩郡(現・世田谷区成城)で暮らしていたころ、自宅の庭で大切に育てていた木で、記念公苑が建てられるのを機に、寄贈されたものである。

國男は生家を「日本一小さい家」と言っていたが・・・

國男は生家を「日本一小さい家」と言っていたが・・・

写真:井伊 たびを

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「私の家は日本一小さい家」だと國男は折に触れて人に説いかけているが、「資料館」にあるこの模型を見る限り、けっしてそうは思われない。

間取りからしても、当時はもちろんのこと、今でも普通一般の家屋である。むしろ彼が強調したかったのは、長男鼎の結婚の悲劇を幼児体験として、その原因を家の構造であるとしたのだろう。このことが民俗学指向の一因ともなっている。

國男は生家を「日本一小さい家」と言っていたが・・・

写真:井伊 たびを

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柳田國男の「神秘体験」とは?

柳田國男の「神秘体験」とは?

写真:井伊 たびを

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國男少年が「神秘体験」をしたという祠は、今「資料館」になっている土蔵の前にある。そもそも、この祠は小川家の主人の祖母に当たる人を「屋敷神(やしきがみ)」として祀ったものである。

悪戯盛りの國男少年は、家人のいないのを見計らって、この祠の石の扉をおそるおそる開けて見てしまったのだ。すると実に綺麗な玉が入っていた。ところが、それを見たとたん気持ちが変になり、見上げた青空に星がいくつも、輝いているのが見えたらしい。と、突然、ヒヨドリが鳴きながら空を通過した。

「もしも、あのときにヒヨドリが鳴かなかったら。私はあのまま気が変になっていたかも・・・」と、後年この日の体験を、柳田國男は思い出して語っている。

柳田國男の「神秘体験」とは?

写真:井伊 たびを

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少年時代のこの「神秘体験」が、のちのち神隠しや異常心理あるいは、民間の不思議な伝説に関心をいだかせ、「遠野物語」へと繋がっていったのだ。

因みに、その時の「不思議な玉」は、「資料館」に展示されている。ただし、これはレプリカで、実物は「歴史民俗博物館」に展示公開されている。

國男少年が読書に耽った「土蔵」が「資料館」になっている

國男少年が読書に耽った「土蔵」が「資料館」になっている

写真:井伊 たびを

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旧小川邸の土蔵が、現在「資料館」になっている。小川家は代々学者だったので、書籍類の数は多かった。國男少年はこの土蔵で、その夥しい書物を読み耽ったとか。國男は自分の人生を顧みて、三回の濫読時代があったと語っている。

一回目は、生まれ故郷で大庄屋の三木家に預けられたとき。二回目は、小川家の「この土蔵」にたくわえられた万巻の書に接したとき。三回目は、内閣文庫に記録課長として出向したときである。

特筆すべきは、この土蔵にて接した赤松宗旦著「利根川図志」との出会いだ。後年、この本を校訂復刻し、柳田國男の後々の人生に大きく関わっている。

國男少年が読書に耽った「土蔵」が「資料館」になっている

写真:井伊 たびを

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國男は天与の資質に恵まれ、常民の暮らしに独自の考察を与え、民俗学という新しい分野の学問を樹立し、昭和26年(1951年)文化勲章を受章している。

資料館には、柳田國男の書「遠野物語」をはじめとする書物や、生家の模型などが展示されている。展示品を丁寧に観て行けば、柳田國男の人となりが浮かびあがってくる内容になっている。

祠での「神秘体験」をはじめ、近くの「徳満寺」(下の関連メモを参照)の地蔵堂に掲げられている「間引き絵馬」に心を凍らせたことなど、数々のエピソードを知ることによって「日本の民俗学の父」を、しっかり知り得る内容になっている。

國男少年が読書に耽った「土蔵」が「資料館」になっている

写真:井伊 たびを

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國男少年の心を凍らせた「間引き絵馬」は必見!

「間引き絵馬」は、公苑近くの「徳満寺」に掲げられている。時間に余裕があれば、ぜひ見ておくべきだろう。それは一人の女が、鉢巻をしめ、産んだばかりの自分の赤ん坊を、押さえつけているというものである。障子には、その女の影が写り、それには角が生えている。「その意味を、私は子供心に理解し、寒いような気持ちになった」と、後に國男は語っている。

天明3年(1783年)、浅間山の噴火を原因にして空が曇り、洪水が起き、何年も米がとれず、たくさんの人々が餓死した。いわゆる、天明の飢饉である。それ以来、食べ物がなければ、このように「口減らし」するほかなかったのだ。

「こうした、飢饉を絶滅せねばならない」という思いが、國男少年の心に芽生え、学問の道へとかりたてたのだ。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/02/02 訪問

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