写真:いなもと かおり
地図を見る現在の近世城郭に改修されたのは1595年のこと。豊臣秀吉の叔父にあたる小出秀政がおこないました。3万石という少ない石高に見合わず、かつて城内には立派な五重天守が建っていたそうです。
しかし、1827年に天守は落雷で焼失。明治になると櫓や城門がなくなり、お城としての遺構は石垣と水堀のみとなりました。現在、岸和田城は千亀利公園として整備され、1954年に再建された復興天守が建ち、郷土資料館として利用されています! ちなみに復興天守とは、天守はあったが、他の城を参考にしたり想像して築いた天守のことです。
写真:いなもと かおり
地図を見る高石垣の上に建つ天守を見上げる景色は、じつに壮麗ですね! 記念撮影スポットを探して堀の周りをぐるりと巡ってみましょう。また、岸和田城の見どころは天守だけではありませんよ。
写真:いなもと かおり
地図を見るお城における石垣の種類は、古い石垣から新しい石垣へと石垣の発展とともに大きくわけて3種類あります。なかでも岸和田城はこの3種類が見られるお城! よく観察すればその違いは一目瞭然です!
写真の奥側は「野面積み」の石垣。自然の石を加工せずにそのまま使用しています。大きい石、小さい石関係なく絶妙なバランスで積み上げていますね。野面積みは、石垣の積み方の歴史の中で古い積み方ですが、最も技術を要する積み方でもあります。
写真:いなもと かおり
地図を見るこちらは「打ち込みハギ」(右)と「切り込みハギ」(左)の石垣です。石垣の折れ目を境に左右で異なるのがわかりますでしょうか? 石の角や面を割って平たくした石を使用する「打ち込みハギ」。また、隙間がないほどキレイに加工し石垣を登りにくくする石垣を「切り込みハギ」といいます。
石垣の歴史は、野面積み、打ち込みハギ、切り込みハギの順に発展していったといわれています。そして、石垣の違いこそ江戸時代に石垣修理が行われた証なのです。
写真:いなもと かおり
地図を見る岸和田城の大きさは東西約840m、南北940m。本丸を中心に、二の曲輪、三の曲輪がバームクーヘンのように広がる輪郭式の縄張をしていました。都市化により埋められてしまいましたが、現在残る本丸の水堀以外にも二重三重に水堀が張り巡らされていた厳重なお城だったのです。
写真は本丸のある千亀利公園のお堀。狭い所でも20m、広い所では40m近い堀幅があります。
写真:いなもと かおり
地図を見るまた、水堀と石垣の間には人1人が通れるくらいの幅のスペースがありますね。これは「犬走り」といって、地盤にかかる圧力を分散させ、石垣や土塁の崩落をふせぐためのものと考えられております。しかし、敵兵が取り付いては大変! スペースは狭く。犬が通れる狭さこそ名称の由来なのかもしれませんね。
写真:いなもと かおり
地図を見る岸和田城の大手門は櫓門と呼ばれる堅固な門です。本丸の隅櫓と共に1969年に再建されました。
中に入るとキュッと左に折れます。真っすぐ通れないところがお城の特徴! 本丸ギリギリまで攻められても、敵を倒す! その意思が読み取れますね。
写真:いなもと かおり
地図を見る大手門をくぐると目の前には巨大な釜が出現! その大きさは直径150cm。小柄な女性がすっぽり入ってしまう大きさです。
実は「甑用大釜(こしきようおおがま )」は、近くにある信貴本家酒造より寄贈されたもの。お酒をつくるための道具が、岸和田城で見られるなんて大阪はイキですね。
締めくくりは天守最上階から眺める景色ではないでしょうか? 本丸庭園にある、重森三玲が作庭した「八陣の庭」などが鑑賞できるベストスポット! また西側には、当時はギリギリまで浜が迫っていたといわれる大阪湾が広がります。夕刻に訪れたら、地平線へと帰る美しい夕陽が見られるかもしれませんね。岸和田が誇るシンボル「岸和田城」は、話題にもなるおすすめ観光地です。
この記事の関連MEMO
この記事を書いたナビゲーター
いなもと かおり
年間120城をめぐる城マニア。國學院大學文学部史学科古代史専攻卒。小学生の時に古墳に目覚め、歴史の道へ。19歳の時に、会津若松城に一目惚れしてから城の虜となる。訪城数は700ほど。日本城郭検定1級、国…
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
旅行ガイドを検索!
(2025/2/11更新)
- 広告 -