“川中島の合戦”激闘の地「長野・松代」にタイムスリップ!

“川中島の合戦”激闘の地「長野・松代」にタイムスリップ!

更新日:2017/05/24 11:36

和山 光一のプロフィール写真 和山 光一 ブロガー
北信濃の領有を争って武田信玄と上杉謙信との天文22年(1533)から5度にわたって繰り広げられた戦いが世に名高い「川中島の合戦」です。5回の合戦のうち最も激しい戦いが繰り広げられたのが、永禄4年(1561)に起こった第4次の戦い。長野市川中島・松代エリアには、八幡原史跡公園をはじめとする川中島の合戦・伝説の地が残り、数々の物語を生んだ第4次の戦いを軸に歴史散策を楽しむのはいかがですか。

信玄を撃つべく、上杉謙信は信濃「妻女山」へ。

信玄を撃つべく、上杉謙信は信濃「妻女山」へ。

写真:和山 光一

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永禄4年(1561)8月中旬、上杉謙信は信玄を討つべく、飯縄大権現を奉じて善光寺に1万8000の兵を集結。善光寺に5000の兵を残し、川中島の南、松代町の「妻女山」に1万3000の兵を率いて陣を張ったのです。

上信越自動車道長野ICから国道406号で千曲方面に走った所の妻女山は、標高370m、北信五岳を望む眺望が素晴らしい千曲川南岸に位置する小高い山で“信州サンセットポイント100選”のひとつになっています。展望はよくここで武田方の海津動きをうかがい、夜襲をかけるであろうことを見破った場所で、現在は善光寺平や北アルプスを見張らせる展望台もあります。

登る途中、山の西側には謙信が槍尻で地面を突いて泉ができたという伝説をもつ「謙信の槍尻之泉」があります。

信玄を撃つべく、上杉謙信は信濃「妻女山」へ。

写真:和山 光一

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4回目の川中島合戦の際、謙信は海津城に炊煙が上がるのを見、啄木鳥戦法による信玄の奇襲攻撃を看破し、妻女山に本陣があるように偽装して秘かに山を下りました。謙信が八幡原の信玄を攻め入るために千曲川を渡った渡船場跡が「雨宮の渡し」です。

今は流れが変わり千曲川は北に移り、昔日の面影はありませんが、江戸後期の儒学者の頼山陽は謙信の心情を「鞭聲粛粛夜河を過る・・・」と詠い、その句碑が置かれています。

武田信玄立ち、「海津城」へ

武田信玄立ち、「海津城」へ

写真:和山 光一

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一方謙信出陣の知らせを受けた武田信玄は、8月16日甲斐を発ち、8月24日2万の兵を集めて上田を経て、川中島西の茶臼山に陣を張ります。その後八幡原を横断して「海津城」に入りました。

上杉謙信との戦いに備えて信玄の命により、川中島の合戦の要衡として、永禄2年(1559)から3年かけて山本勘助に築かせたとされる海津城は、一説には、当時滔々と流れる千曲川を海に見立て、名付けられたとも言われています。

武田信玄立ち、「海津城」へ

写真:和山 光一

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元和8年(1622)真田信之が信州上田から松代城主に任じられ正徳元年(1711)松代城と改称され真田氏の居城となり、真田十万石の城下町を形成しました。以前は石垣を残すだけとなっていましたが現在は史跡公園として整備され、太鼓門などが復元されています。春には見事な桜の競演がみれますよ。

信玄・謙信一騎打ちの川中島合戦跡「八幡原史跡公園」

信玄・謙信一騎打ちの川中島合戦跡「八幡原史跡公園」

写真:和山 光一

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謙信に先立ち9月9日、山本勘助の啄木鳥の戦法により武田軍が動きます。1万2000の兵が妻女山を攻め、上杉軍を八幡原に追い出して信玄本体8000の兵が迎撃する挟み撃ちの戦法です。この時、写真の八幡社の境内に武田信玄は本陣を構え、八幡大神のご加護を受けたといいます。現在信玄が本陣を置いた八幡原は、緑豊かな史跡公園として整備されています。

決選が行われた9月10日早朝は、朝から深い霧が立ち込めており、このため謙信軍1万3000は、少しも怪しまれず武田軍に接近し八幡原に布陣できたのでした。そして謙信は、卯刻(午前6時)、八幡原に立ちこめていた霧が晴れると一斉に出陣し合戦の火蓋が切って落とされました。激烈を極めたこの戦いで信玄はしぶとく生き残り、妻女山奇襲隊が戻ってきたところで戦況は逆転し、謙信は断腸の思いで退却を命じました。武田軍、上杉軍合わせて8000以上の兵が戦死したのです。

信玄・謙信一騎打ちの川中島合戦跡「八幡原史跡公園」

写真:和山 光一

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謙信が最後の最後に唯一騎、信玄の本陣に斬り込んだというのもこの時です。信玄の陣営に突入した謙信は、信玄に斬りつけます。信玄は太刀を抜く間もなく、軍配団扇で太刀を防ぎました。謙信は信玄の首を逸し、信玄は謙信の必殺の太刀から免れたのです。「八幡原史跡公園」として整備された第4次川中島の合戦の戦場となった川中島古戦場跡には、騎乗のまま斬りかかる謙信、座ったまま軍配でそれを受ける信玄を描いた「一期討ちの像」があり、その脇には、武田軍の「風林火山」、上杉軍の毘沙門天の「毘」の旗印が掲げられていて、臨場感溢れています。

信玄・謙信一騎打ちの川中島合戦跡「八幡原史跡公園」

写真:和山 光一

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また馬上の謙信が信玄めがけて三太刀まで浴びせたところ、信玄の軍配には七太刀受けた跡が残っていたという伝説に由来する「三太刀七太刀之跡」の石碑、謙信を取り逃がした武田軍の原大隅守が無念に思い傍らの石を槍で突き通したという伝説を持つ「執念の石」などが残っています。

二人の信繁の墓がある寺「典厩寺」

二人の信繁の墓がある寺「典厩寺」

写真:和山 光一

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千曲川に架かる松代大橋の袂には、武田典厩信繁の墓がある「典厩寺」があります。この寺は、創建(1500年頃)当時、鶴巣寺と称していました。第4次川中島の合戦の際、武田信玄の弟、武田信繁はこの寺を典厩本陣として出陣しましたが、この激戦で惜しくも37才で討死し、この寺に埋葬されたのです。その後、初代真田藩主真田信之が菩提を弔うため、その名前をとって「典厩寺」と改められました。

二人の信繁の墓がある寺「典厩寺」

写真:和山 光一

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武田の副将であり、信玄の片腕として活躍し稀に見る名将であった武田典厩信繁。特に武田騎馬戦を強くしたので武田軍は大変恐れられました。墓の横には典厩信繁公の首洗い井戸もあります。

有名な真田幸村の本名は、武田信繁公の知性・武勇にあやかって父昌幸が真田信繁と名づけられました。信繁公の墓の一番左側には兄の信之が建立した幸村の五輪供養塔があります。

二人の信繁の墓がある寺「典厩寺」

写真:和山 光一

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松代八代藩主真田幸貫により、川中島合戦戦死者8000余名を供養した高さ5mの日本一大きい「閻魔大王像」が安置されています。屋根に武田菱をあしらっていることからも信仰の厚さがうかがえます。

勘助無念!夏草や 兵どもの 夢の跡

勘助無念!夏草や 兵どもの 夢の跡

写真:和山 光一

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激烈を極めたこの戦いにて、副将格の武田信玄の弟・武田典厩信繁、諸角豊後守虎定らが討ち死にし、八幡原史跡公園の近くには討死した武田方の武将の墓が点在しています。軍略に優れた名参謀として武田信玄を助けた山本勘助は、自らが策した戦法が破れて討死しました。「山本勘助の墓」は三河をはじめ富士、豊川など各地にあるといわれていますが、信州では千曲川を挟んで八幡原史跡公園の対岸の河川敷にある畑の中にぽつんと立っています。

現在地よりやや南の勘助塚にあった勘助の墓は、1793年遺骨とともに現在の位置に移されました。勘助の墓があるかつての広瀬の渡しに建つ信州柴阿弥陀堂は信玄が戦勝祈願し、また建て替えも行っている縁の深いお堂です。

車は入れませんので国道403号柴の交差点近くの旧金井山駅に停めて歩くこと約10分です。

勘助無念!夏草や 兵どもの 夢の跡

写真:和山 光一

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また少し離れた南長野バイパス近くの塔之腰にあるのが「諸角豊後守の墓」です。諸角豊後守は81才という最古参での出陣でしたが、典厩信繁の死に激怒し、敵陣に突入し討死してしまったのです。今も地元では「もろずみさん」の愛称で親しまれています。

山本勘助の夢散った長野・松代の地を歩く

信玄、謙信の北信濃の熾烈な戦いである川中島の戦いのゆかりの場所は、門前町の賑わいが残る仏都・長野の善光寺門前、そして質実剛健な城下町風情が残る松代と、信州で訪れたい観光地のひとつが控えるこの地に残っています。

戦国時代、武田信玄が上杉謙信とに戦に備え築城した「海津城」は松代城と名を変え、江戸時代に真田氏の居城となり、松代十万石の城下町として栄えました。真田公園にある松代観光案内所では、レンタサイクルを利用することができ、ご紹介した史跡を巡る風林火山コースはいかがでしょう。サイクリングで2時間程度の距離です。

松代へは自家用車はもちろん、長野駅からアルピコ交通バス松代線で約35分で松代駅バス停に到着します。また途中八幡原史跡公園のある川中島古戦場バス停で降りることもできますよ。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/08/02−2017/04/19 訪問

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