和歌山県「藤白神社」は約200万人の「鈴木さん」のルーツ

| 和歌山県

| 旅の専門家がお届けするオリジナル旅行ガイドメディア

和歌山県「藤白神社」は約200万人の「鈴木さん」のルーツ

和歌山県「藤白神社」は約200万人の「鈴木さん」のルーツ

更新日:2017/05/04 19:15

モノホシ ダンのプロフィール写真 モノホシ ダン 総合旅行業務取扱管理者、総合旅程管理主任者

和歌山県海南市にある「藤白神社」は全国に約200万人以上と言われる「鈴木姓」の氏神です。また藤白神社は、熊野九十九王子の中でも特に格式の高い五躰王子のひとつとされ、境内には南方熊楠ゆかりの樹齢1000年の楠の大樹があり、権現堂には熊野路で唯一の熊野本地仏が祀られています。さらに若くして悲劇に散った有間皇子ゆかりの地でもあります。熊野信仰と鈴木氏のルーツをたどる歴史体験の旅に出かけてみませんか。

鈴木姓の方は記念品をいただきましょう

鈴木姓の方は記念品をいただきましょう

写真:モノホシ ダン

地図を見る

熊野の有力豪族であった鈴木氏は、平安時代に藤白の地に移住し全国に約3000あるといわれる熊野神社を建立し、空前の熊野詣ブームを巻き起こしました。現在でいう旅行ブームの仕掛人だったわけです。鈴木姓か全国に広まるきっかけともなりました。藤白神社のご祭神の、饒速日命(にぎはやひのみこと)は藤白鈴木氏の氏神です。

鈴木姓の方は、写真の社務所で鈴木姓であることを伝えて記帳ノートに住所と氏名を記入すると記念品として、鈴木家の家系図を頂けます。家系図は、現在の藤白神社の名誉宮司であった吉田留信氏が製作した系図をもとにしたとても立派なものです。

鈴木姓の方は記念品をいただきましょう

写真:モノホシ ダン

地図を見る

藤白神社の本殿です。神社の由緒はたいへん古く、日本武尊の父として知られる第12代天皇の景行天皇の時代に遡ります。のちに658年に斉明天皇が、牟婁の湯(現在の白浜温泉)に行幸の際に立ち寄り社殿を創建されました。

鈴木姓の始まりについては、鈴木家の祖先が、神武天皇東征の時に、天皇に稲を献じて「穂積」という姓を頂き、熊野では稲を積み重ねたものを「すずき」と言ったことから「鈴木」になったと言われています。あるいは神武天皇一行を案内する際に、熊野権現の神木である「梛の木」に鈴を付けたことに由来するという説もあり。

熊野信仰とともに発展した神仏習合の神社

熊野信仰とともに発展した神仏習合の神社

写真:モノホシ ダン

地図を見る

熊野では子供が生まれると長命・出世を祈って「楠」「藤」「熊」のいずれかの字をつける風習がありました。境内社の子守楠神社は樹齢1000年以上とされる楠をご神木とし、いまも子授け、安産、成長の神様として親しまれています。

世界的な博物学者の南方熊楠も名を授かった一人です。熊楠はとくに身体が弱かったために熊と楠の2文字を授けられました。じかにご神木に触れてパワーを頂きましょう。

熊野信仰とともに発展した神仏習合の神社

写真:モノホシ ダン

地図を見る

熊野古道は京都から熊野本宮への巡礼路で、藤白神社は熊野古道の九十九王子の中でもとくに格式の高い五躰王子のひとつです。五躰王子とは、藤白、切目、稲葉根、滝尻、発心門の5社のことです。

ちなみに「王子」とは、プリンスのことではなく熊野詣の礼拝所のことで、現代風にいうと神社に道の駅が併設されたようなものです。

平安時代から鎌倉時代にかけての皇族の熊野御幸の際には、御宿泊所となった藤白神社で、法楽のために歌会や相撲会等が盛んに催されました。写真の楠に下には、平安時代に宇多・花山・白河の三上皇の熊野御幸を記念して建てられた「聖皇三代重石」があります。

また鎌倉時代の1201年には後鳥羽上皇が催された藤白和歌会が有名で、その時の「熊野懐紙」ご宸翰は国宝になっています。ちなみに宸翰とは天皇直筆の文書のことです。写真の左手の藤の木の下に歌碑と御歌塚があります。

熊野信仰とともに発展した神仏習合の神社

写真:モノホシ ダン

地図を見る

ふつう神社には仏像がありませんよね。明治政府の神仏分離令により神社とお寺に分けられてしまったからです。しかし、境内の藤白王子権現本堂には熊野三所権現と藤代若一王子の本地仏などの仏像が祀られています。これは神道と仏教が同居していた頃の神仏習合の名残りです。

熊野古道九十九王子の中で神仏分離令を免れて、仏像が残っているのはここだけです。

悲劇の皇子「有間皇子」を偲ぶ

悲劇の皇子「有間皇子」を偲ぶ

写真:モノホシ ダン

地図を見る

境内には悲劇の貴人「有間王子神社」が。有間皇子は、大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の謀略で謀反人に仕立てられ抹殺された悲劇の皇子です。

有間皇子の父は、中大兄皇子の母の皇極天皇の弟である孝徳天皇です。645年のクーデター「乙巳(いつし)の変」で、時の権力者で権勢を極めた蘇我入鹿を抹殺して政治の実権を握った中大兄皇子は、ほとぼりが冷めるまでひとまず皇位を孝徳天皇に譲ります。

そして、孝徳天皇が亡くなると、皇位継承を確実なものにするために目障りとなった孝徳天皇の皇子である有間皇子の命を狙うようになります。

悲劇の皇子「有間皇子」を偲ぶ

写真:モノホシ ダン

地図を見る

身の危険を感じた有間皇子は狂人を装うなどして、中大兄皇子との勝ち目のない皇位継承レースから必死に逃れようとしました。しかし、中大兄皇子を欺くことはできませんでした。

658年、中大兄皇子は重祚(ちょうそ)して皇極天皇から斉明天皇となった母とふたりで牟婁の湯に行幸に出かけました。飛鳥に残った有間皇子のもとへ、中大兄皇子の腹心の蘇我赤兄(そがのあかえ)が近づき謀反をそそのかします。

うっかり本心を吐露した有間皇子はたちまち捕えられ、牟婁の湯の中大兄皇子の下へ送られ、形ばかりの尋問をうけました。

そして政治犯として飛鳥に護送される途中、にわかに藤白坂で襲われ、絞首刑にされてしまったのです。わずか19歳でした。藤白神社から約200mほどの藤白坂の上り口に、有間皇子の墓があります。藤白神社では、命日の毎年11月11日に悲劇に散った皇子を慰める有間皇子まつりがあります。

よみがえれ鈴木屋敷

よみがえれ鈴木屋敷

写真:モノホシ ダン

地図を見る

じつは藤白鈴木家は、太平洋戦争中の1942年に122代で絶家しています。藤白神社の境内にある「鈴木屋敷」は荒れ果てて倒壊の恐れがあるとして、柵で囲まれた状態です。「鈴木屋敷を育てる会」では、地域の貴重な文化遺産を蘇らせるために復旧活動をしています。

よみがえれ鈴木屋敷

写真:モノホシ ダン

地図を見る

藤白の鈴木屋敷で有名なのは、鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟です。重家、重清たちが幼少の頃に、牛若丸(源義経)が熊野詣の際に必ず藤白の鈴木屋敷に滞在し、敷地内には義経弓立の松の古木が残されています。

この鈴木兄弟は義経の家来として最後まで戦い、1189年の奥州平泉の衣川の戦いで、ついに最期を遂げたと言われています。

鈴木姓でなくても楽しめる歴史体験の地

いかがでしたか。藤白神社は鈴木姓のルーツであると同時に、熊野信仰のもっとも華やかりし頃の舞台となり、悲劇のヒーロー源義経のゆかりの地でもあります。

さらに世間では、大化の改新の立役者とされている中大兄皇子の栄光の裏側で、謀略の犠牲となって散って行った有間皇子を身近に感じられる場所でもあります。神仏分離令を免れて熊野路に唯一残された熊野本地仏などは奇跡に近いでしょう。

様々な時代の息遣いを感じられるパワースポット「藤白神社」をぜひ訪れてみませんか?

この記事の関連MEMO

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/04/29 訪問

- PR -

条件を指定して検索

トラベルjp<たびねす>

トップページへ戻る

トラベルjpで一緒に働きませんか? 旅行ガイド編集部では運用サポートスタッフを募集中です!

- PR -

旅行ナビゲーター(在宅ライター)募集中!
この記事に関するお問い合わせ