写真:乾口 達司
地図を見る本願寺が現在の地に移ってきたのは、天正19年(1591)のこと。当時、教団の内部では、かつての石山合戦の折、織田信長と講和する道を選んだ融和派と、あくまで戦い続けようとした抗戦派との対立が深刻化していました。後者はやがて徳川家康に接近。家康は、慶長7年(1602)、後者に対して、寺地の寄進をおこないます。彼らはやがて東本願寺を本山とする本願寺大谷派として自立する道を選びました。これを契機に、本願寺は西本願寺と東本願寺とに分立することになります。もちろん、その背景に、戦国時代以降、強大な権威と権力を誇り、戦国大名たちとも対等にわたりあってきた本願寺の力を削ぐという、徳川幕府の政治的な意図があったことはいうまでもありません。
しかし、分立したとはいえ、西本願寺の力は、依然として、強大であり続けました。その力の象徴こそ、正面中央に並び立つ御影堂と阿弥陀堂にほかなりません。写真手前の御影堂は、寛永13年(1636)の建立。東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートルという規模を誇る大建造物です。一方、御影堂の奥に立つ阿弥陀堂は、宝暦10年(1760)の再建。こちらも東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートルという規模で、実際に御影堂や阿弥陀堂の前に立つと、その大きさに圧倒されます。
写真:乾口 達司
地図を見る御影堂と阿弥陀堂は、一年を通して、一般に開放されています。参拝の折には、ぜひ、堂内に上がってみてください。御影堂は大きく内陣と外陣にわかれており、外陣の広さは441畳。一度に千人以上を収容することができるということからも、その圧倒的な規模が実感できるでしょう。内陣の中央には御厨子が安置されており、平成11年より21年までおこなわれた修復工事の折に金箔などが貼りなおされ、創建当時の輝きを取り戻しました。
写真:乾口 達司
地図を見る境内の南側では、国宝の唐門を拝観できます。形式は檜皮葺の四脚門。豊臣秀吉によって造られた聚楽第や伏見城の遺構ともいわれていますが、確かなことは、わかっていません。唐門では、細部にほどこされた意匠をじっくり眺めましょう。唐獅子や龍、麒麟といった動物、牡丹や松、竹といった植物のほか、許由が頴川で耳を洗うといった中国の故事なども彫られています。その素晴らしさに時が経つのも忘れてしまうことから、別名、「日暮らし門」とも呼ばれています。
写真:乾口 達司
地図を見る西本願寺を訪れたら、境内の東側を南北に走る堀川通りの向かい側にも、足を運んでみましょう。総門をくぐり、百メートルほど進むと、右手に大きなドームをいただいたレンガ作りの建造物が見えてきます。明治45年(1912)、東京帝国大学教授で建築家の伊東忠太によって設計された伝道院です。もとは信徒向けの保険会社として建設されたものですが、その後は銀行や事務所などに転用され、現在は研究所として利用されています。外観は古典様式にもとづいていますが、各所にイスラムの建築様式や日本の古典様式がとり入れられており、仏教系の西本願寺にあっては、きわめて異色の近代建築です。通りに面した北側と西側には、想像上の怪物を模した車止めの石柱も並んでおり、こちらも必見です。
いかがでしたか?境内には、ほかにも、期日を限って特別公開される飛雲閣や書院などの国宝建築も点在していますが、今回、ご紹介した建造物だけでも、西本願寺が文化財の宝庫であることがおわかりになることでしょう。その豪壮で華麗な建造物は他所では滅多に見ることのできないものなので、京都を訪れたときには、ぜひ、足を運んでいただきたいと思います。
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(2024/9/14更新)
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