京都『刀剣乱舞』聖地!戦国〜幕末を駆け抜けた刀剣とその主たち

京都『刀剣乱舞』聖地!戦国〜幕末を駆け抜けた刀剣とその主たち

更新日:2017/06/06 11:56

古都の U助のプロフィール写真 古都の U助 ブロガー
大人気ゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』は、アニメ化の新作が決定しているなどその勢いは全く衰えることを知りません。
ゲームでは多くの名刀が擬人化し登場しますが、京都には審神者(さにわ)と呼ばれるプレーヤーはもちろん刀剣ファン、歴史ファンの皆さんに一度は訪れていただきたい場所がいっぱいです!
その中でも今回は戦国から幕末、激動の時代を駆け抜けた刀剣やその所持者にゆかりの場所をご案内します!

本能寺「信長公廟」

本能寺「信長公廟」

写真:古都の U助

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多くの武将にもれず刀剣愛好家の一人であった織田信長は本能寺の変の際、薬研藤四郎や宗三左文字など、いくつかの名刀を所持していたとされています。

特に信長のお気に入りであった刀剣の1つ、不動行光は本能寺の変以前に信長の小姓・森蘭丸に譲られていましたが、その森蘭丸が本能寺の変の際信長とともにいた為この不動行光も焼身となってしまったといいます。

現在の本能寺は豊臣秀吉によって京都の寺町整備によって移転した場所で、境内東部に「信長公廟」があり例年秋にはすぐそばの大銀杏の黄葉が彩りを添えています。

本能寺「信長公廟」

写真:古都の U助

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本能寺の変の当時、お寺の境内があったのは現在の本能寺がある場所より西の堀川四条交差点の北東辺りでした。その頃は今より大規模な境内で高い塀や深い堀もあって信長のお気に入りの滞在地であったようです。本能寺の変の後、捜索により焼身となった刀剣・不動行光や宋三左文字、信長所有の兜などが発見されるも、結局信長の遺体や首は発見されず、今に至るまで大きな謎とされています。

現地に行かれたら、使用されている本能寺の文字をぜひよく見てください。本能寺は変を含め何度も火災にあっているため、ヒが2つも使われる通常の「能」の字ではなく、火が去るようにとの願いを込めて旧字が今もなお使われています。

織田信長を祀る「建勲神社」

織田信長を祀る「建勲神社」

写真:古都の U助

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刀剣・宋三左文字(義元左文字とも)は、南北朝時代に正宗十哲に数えられる正宗の弟子の1人・左衛門尉安吉によって、南北朝時代に作刀されたとされています。

戦国時代には三好氏から甲斐の武田信虎に贈られ、信虎の長女・定恵院が今川義元に嫁ぐ際今川家に贈られました。今川義元が桶狭間の合戦で敗れると織田信長の所有となり、本能寺の変の際は宋三左文字は信長のそばにありましたが、秀吉の捜索により焼け跡から見つけ出されたとも、信長に仕えた松尾大社関係者の女性が宋三文字を持って逃げ出し、密かに所蔵したのを後に秀吉に差し出したとも伝えられています。

秀吉から秀頼に相続された後さらに秀頼から家康に贈られ、家康は大阪の陣の際にもこの刀を帯剣していたといわれています。明暦3(1657)年の大火で焼身となるも打ち直され、長く徳川家の所蔵となっていましたが、明治3年織田信長を祀る建勲神社が創建されると徳川家から寄贈をうけ、現在は建勲神社所有、京都国立博物館に寄託されています。

※ 刀剣・宋三左文字はH29夏 名古屋市徳川美術館での展示予定有り

豊臣秀吉を祀る「豊国神社」

豊臣秀吉を祀る「豊国神社」

写真:古都の U助

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刀剣・骨喰(ほねばみ)藤四郎は、粟田口藤四郎の作とされ、源頼朝から九州の大友氏に拝領されたとの言い伝えがある刀。その後大友氏より忠誠の証として足利尊氏に献上され、足利将軍家の重宝となりました。

三好三人衆によって、二条御所にて足利13代将軍義輝が謀殺された永禄の変の後、三好氏に仕えた松永久秀の所有に。松永久秀は大友宗麟の返還要求に応じ謝、礼を受け大友家に返還されるも、秀吉の所望を受け豊臣家の所有となりました。

大阪夏の陣のあと無傷で見つかり徳川将軍家に献上されましたが、宋三左文字と同じく明暦の大火で一度は焼身となってしまいました。明治になってから「豊国神社」が創建されると、徳川宗家より寄進を受け現在は豊国神社の所有となり、京都国立博物館に寄託されています。

新撰組ゆかりの地

新撰組ゆかりの地

写真:古都の U助

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ゲーム『刀剣乱舞』には、新撰(選)組隊士らの愛用した刀を擬人化したキャラも多く登場します。その持ち主であった新撰組メンバーの京都でゆかりの場所として、まず名前が上がるのが壬生寺です。最初に屯所となった八木邸の近くにあり、兵法鍛錬所となった壬生寺の境内には、近藤勇胸像や芹沢鴨らの墓のある壬生塚がある他、平成元年に作られた千体仏塔もあり印象的です。

新撰組ゆかりの地

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新撰組が最も華々しい成果をあげたのはやはり長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃した元治元年6月の、池田屋事件でしょう。現在はその跡地で居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」が営業されています。

店内には時代劇の「階段落ち」でおなじみの階段も再現され、ランチ営業もしているので、お酒はあまり飲まないという女子でも気軽に来店することができます。

新撰組ゆかりの地

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池田屋事件で一躍脚光を浴びた新撰組は新しい隊士も増え200人を超える大所帯となり、屯所を壬生からより広い西本願寺に移転。
その後現在の京都駅北西付近に新しい屯所を構えるまでの間を西本願寺で過ごしました。

新撰組は西本願寺境内北部の北集会所と太鼓楼を屯所とし、太鼓楼は当時のまま現存しています。太鼓楼は内部の公開はされていませんが、門前の堀川通りからもその外観をよく見ることができます。

坂本龍馬ゆかりの地

坂本龍馬ゆかりの地

写真:古都の U助

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坂本龍馬といえば、その先見の明や数多く残る手紙類などに偲ばれる人柄などで、歴史上の人物の中でも特に人気のある人物です。ゲーム『刀剣乱舞』にも、持ち主の坂本龍馬をイメージした土佐弁を話すキャラ・陸奥守吉行が登場します。

京都の坂本龍馬ゆかりの場所としては、土佐藩邸跡や終焉の地である近江屋跡の他、定宿としていた伏見の寺田屋などが挙げられます。

坂本龍馬ゆかりの地

写真:古都の U助

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明治維新を目前にして亡くなった維新の志士を奉祀するため創建された、京都市東山区の「京都霊山護国神社」には維新の志士らの墓所があり、京都の町を一望する一際眺めの良い場所に坂本龍馬の墓(写真左)と中岡慎太郎の墓(同右)があります。

二人が共に近江屋で襲撃を受けた際、龍馬は愛刀・陸奥守吉行に手を伸ばすも鞘を抜く暇もなくそのまま刺客の剣を受け、鞘も損傷を受けたそうです。陸奥守吉行はその後坂本家が相続したそうですが、鞘は火災で失われ、刀身は打ち直され現在は京都国立博物館所蔵となっています。

襲撃を受けたのは奇しくも龍馬の誕生日の11月15日。例年龍馬の誕生日であり命日には霊山護国神社で龍馬祭が行われ、好物の軍鶏鍋が墓前に供えられた後、参拝者にも振舞われます。

坂本龍馬ゆかりの地

写真:古都の U助

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京都霊山護国神社の横には日本で唯一の幕末・明治維新についての総合博物館である霊山歴史館があります。こちらはゲーム『刀剣乱舞』に登場する刀剣の所蔵はないものの、貴重な刀剣類が所蔵・展示されているため刀剣ファン・歴史ファンにはぜひおすすめしたい場所の1つです。

展示品には、坂本龍馬を斬った有力な候補者であり、近江屋事件のわずか1ヵ月半後に鳥羽伏見の戦いで戦死した桂早之助所用の脇差をはじめ、新選組局長・近藤勇の愛刀「阿州吉川六郎源祐芳(あしゅうきっかわろくろうみなもとのすけよし)」や副長 土方歳三の愛刀「大和守源秀國(やまとのかみみなもとのひでくに)」があります。

他にも、池田屋騒動があった池田屋のジオラマ模型など、当時の歴史をより具体的に感じることのできる展示・資料などが魅力的です。

京都は『刀剣乱舞』ゆかりの地がいっぱい!

京都には刀剣乱舞ゆかりの地が本当にたくさんあり、一日ではとても回りきれないほど!ぜひ泊りがけで計画していただいたら、と思います。
別記事の【「刀剣乱舞」京都聖地!平安〜鎌倉時代の刀剣・刀匠ゆかりの地を巡る】では三日月宗近、鶴丸国永など比較的古い時代に登場する刀剣たちゆかりの地を紹介しています。併せてご覧下さい。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/04/02−2017/05/28 訪問

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