写真:沢木 慎太郎
地図を見る利休は16世紀に堺で生まれました。禅の精神を養い、わび茶を大成。茶道千家の始祖、“茶聖”と称されています。腕を見込まれて、織田信長の茶頭(茶の湯の先生)となり、信長の死後は豊臣秀吉に仕え、天下一の茶匠として名を馳せました。
まず、ご紹介するのは利休が暮らしていた屋敷跡。南海高野線・堺東駅近くにある堺市役所の前には、日本最古の官道とされる竹内街道(たけのうちかいどう)があります。そして、この道を大阪湾側の南海本線・堺駅に向かって進み、路面電車(阪堺電車)が走る大通り沿いにあるのが「千利休屋敷跡」なのです。
ビルと民家に囲まれた一角で、井戸と石碑が建っているだけの簡素な場所。写真の井戸は、利休が茶湯に使ったとされる『椿の井戸』で、椿の墨を井戸の底に沈めると、茶の湯にとても良い水が得られることから名づけられました。井戸を覆う屋根は、利休のゆかりの地である京都・大徳寺山門(三門)の古い部材を使用しているそうです。
堺では、ボランティアガイド(NPO法人堺観光ボランティア協会)さんがいらっしゃって、利休屋敷跡などを巡る無料のガイドツアーを行っています。
「利休は身長が180p近くあった」など、利休に関わるさまざまな逸話を語ってくれるので、ご興味のある方は問い合わせてみてはいかがでしょうか?
【利休屋敷跡】
■住所:大阪府堺市堺区宿院町西1−17−1
■アクセス:阪堺電軌阪堺線宿院駅からすぐ
■備考:見学自由(外観のみ)
■問い合わせ:072-233-0531(NPO法人 堺観光ボランティア協会)
写真:沢木 慎太郎
地図を見るところで、利休の名前は知っているけれど、生まれ故郷の堺についてはあまり知らないといった方も多いのではないでしょうか? では、高い所から堺の街を眺めてみましょう。
堺市役所の21階展望ロビーは見晴らしが良く、遠く神戸・六甲山の山並みや明石海峡大橋まで見ることができます。その中でも、ひと際目立つのは、お墓の面積では世界最大の“仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)”正式には「大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)」と呼ばれています。エジプトのクフ王ピラミッド、中国を統一した最初の皇帝・始皇帝の御陵と並ぶ世界3大墳墓の一つ。
5世紀に造られ、全長約486メートルの前方後円墳で、ユネスコの世界遺産に登録する計画が持ち上がっています。写真は夕暮れの仁徳天皇陵ですが、写っているのは古墳の後ろ部分の円墳。小山のように盛り上がっています。この右側に、2倍以上の古墳が広がっているので、その大きさがご理解していただけますでしょうか?
堺市役所の展望台は高さ80メートルですが、まわりに高い建物がないため、眺望がたいへん素晴らしい場所です。穴場的な夜景のスポットなので、ぜひお越し下さい。堺市役所へのアクセスは、ミナミで知られる大阪・難波から、南海電車高野線に乗って、堺東駅で降りると便利。南海本線の堺駅と混同しやすいので、ご注意を!
また、仁徳天皇陵の南側に隣接した大仙公園(だいせんこうえん)には、利休、津田宗及と並んで茶湯の天下三宗匠(そうしょう)と称せられた今井宗久ゆかりの茶室・黄梅庵(おうばいあん)があります。内部は非公開ですが、庭園の見学は無料。江戸時代中期の茶室の雰囲気を味わってみてはいかがでしょうか?
【堺市役所 21階展望ロビー】
■場所:大阪府堺市堺区南瓦町3−1
■営業時間9:00〜21:00
■入場料:無料
■定休日:年中無休
■アクセス:南海高野線「堺東駅」下車
■その他:カフェあり
写真:沢木 慎太郎
地図を見る利休は、“不足の美”を目指しました。これは、不完全だから美しいという禅の思想で、高価な茶碗よりも、日常で使っている器を茶会で使い、“侘び(わび)”を求めたのです。
利休は庭の落ち葉をきれいに掃き終えると、最後に落ち葉を少しまきました。「せっかくきれいに掃き終えたのになぜ?」と人が尋ねると、利休は「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えます。簡素なものに美を見つける利休の人柄が感じられるエピソードですね。
何ものにもとらわれず、自由で独自な利休の精神を育んだのは、堺という土地柄にもあると思われます。堺は古くから中国との貿易などで栄えた街。
有力な豪族が集まり、商人たちは大名に支配されず、街の周囲を壕で囲い、自分たちのルールに従って都市運営を行ってきました。このため、堺には“自由”という気風が漂い、独自の文化を持ちます。戦国時代は、日本一の鉄砲の生産地であり、刃物は600年の伝統を持つほか、今では日本製の自転車の半分は堺で作られている工業の街なのです。
そんな堺の独特な伝統や産業を一堂に集めたのが「堺伝統産業会館」。
「千利休屋敷跡」から阪堺電車の軌道に沿って北へ1キロほど進んだ場所にあり、途中には与謝野晶子(よさのあきこ)の生家跡地があります。
「堺伝統産業会館」では、堺市の名産品や工芸品を販売。刃物や線香、注染和晒(ちゅうせんわらざし)、緞通、昆布、自転車、和菓子などの体験もできるので、利休の精神をはぐくんだ堺の伝統産業にもぜひ触れてみて下さい。
【堺伝統産業会館】
■住所:堺市堺区材木町西1-1-30
■電話:072-227-1001
■開館時間:10:00〜17:00
■休館日:年末年始(臨時休業あり)
■入館料:無料
写真:沢木 慎太郎
地図を見るこちらの商品は、さきほどの「堺伝統産業会館」で展示・販売されているもので、利休にちなんだお土産です。いちばん右端が『利休の涙』と名づけられたお線香。パッケージの利休さんが可愛いですね。その他にも堺にある名門校、プール学院の女学生の皆さんが香りやデザインを、自分たちで考えて作ったオリジナルのお線香などがあります。。
真ん中は、『利休茶』という名の番茶です。その隣は、まっ茶の香りがするお線香。
このほか、利休のキャラクターがデザインされた『和(なごみ)』『極(きわみ)』『匠(たくみ)』といったオリジナルのコーヒー豆も販売しています。
利休さんの精神性は、お線香やコーヒーにまで溶け込んでいるのですね。
信長の死後、秀吉に仕えた利休ですが、身分を超えて結ばれた二人の仲は次第に冷えたものになります。
ある日、利休の弟子が秀吉への態度が悪いとされ、その日のうちに処刑。それは耳と鼻を削がれて殺されるという残忍なものでした。また、秀吉が愛用している黄金の茶室は、利休の質素な茶道とは異なるもの。二人の対立は日を追って激しくなっていきます。
派手好きな秀吉が黒色を嫌っていることを知りながら、利休は茶会で「黒は古き心なり」と秀吉に黒色の茶碗を差し出し、多くの家臣を前に秀吉のメンツは丸潰れ。利休は秀吉から、「京都を出て堺で自宅謹慎せよ」との命令を受けます。
秀吉は利休に謝罪させて、上下関係をはっきりさせようとしますが、利休はこれを拒否。権力の道具としての茶の湯は、“侘び”の精神に反する。秀吉に頭を下げるのは、茶道そのものを侮辱することになる、と利休は考えたのでした。
雷鳴が轟く日、秀吉の使者が利休のもとを訪ね、そして秀吉の意向を伝えます。
「切腹せよ」
利休は静かに口を開きます。
「茶の支度ができております」
利休は使者のために最後の茶をたて、一呼吸をおいて切腹します。
享年69歳。
写真:沢木 慎太郎
地図を見る簡素さを好んだ利休さんがとても気に入るような風景が、今の堺にはあります。
それは「千利休屋敷跡」や「堺伝統産業会館」のアクセスとして、たびたび登場した路面電車「阪堺電車」。
阪堺電車とは、大阪市内と堺市内を結ぶ「阪堺電気軌道」のこと。
写真の通り、地面よりも少し高いだけのホームには改札口も券売機もなく、無駄なものを一切省いた簡素な造りとなっており、利休さんが好みそうな風景です。
踏切もなく、信号が赤になればクルマと並んで停車。のろのろと走る豆タンクみたいな阪堺電車は哀愁が漂い、夕日に消えていく様子はたまりません。利休の茶室のような、簡素すぎる電車です。
阪堺電車には2つの路線があり、一つは「阪堺線」(天王寺駅前〜住吉公園)で、もう一つは「上町線」(恵美須町〜浜寺駅前)。
堺市まで延びているのは「阪堺線」だけです。
堺から阪堺線に乗り、終点の天王寺駅前に行くと、日本一高いビル「あべのハルカス」に行くことができるので、のんびりとした路面電車の旅を楽しまれてはいかがでしょうか?
利休の死から7年後。秀吉は病に伏せ、そのまま他界します。晩年の秀吉は、利休への仕打ちをひどく後悔していました。利休と同じ簡素な方法で食事をとり、利休が好む枯れた茶室を建てさせていたと伝えられています。秀吉にとって利休は、ドラえもんのようなかけがえのない友だちだったのでしょう。
そして、秀吉の死から17年後の1615年。大坂夏の陣の戦火は堺にも及び、大阪の街は焦土と化し、豊臣家は滅亡します。
井戸と石碑が建っているだけの簡素な「千利休屋敷跡」。利休は何も残さない人でしたが、その利休の精神は伝統工芸に脈々と受け継げられ、現在の堺の繁栄を支え続けています。
堺には、ご紹介した以外にも、旧堺港に建つ日本最古の木造洋式灯台「旧堺燈台」(国指定史跡)や、体験型農業公園「堺・緑のミュージアム ハーベストの丘」といった人気のスポットも。
また、阪堺線の宿院停留場界隈には、くるみ餅などの老舗の和菓子屋が数多く集まっており、甘いもの好きな方にはおススメです。
大阪に観光で来られたら少し足を延ばし、利休ゆかりの地や堺の伝統・文化に触れてみてはいかがでしょうか?
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(2024/12/14更新)
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