細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く

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細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く

細川ガラシャ歌碑も!大阪城南側の歴史の町を歩く

更新日:2017/06/10 16:43

菊池 模糊のプロフィール写真 菊池 模糊 旅ライター、旅ブロガー、写真家

JR大阪環状線または地下鉄の森ノ宮駅付近の、大阪城南側の歴史の町を散策します。このあたりは、大坂城(現・大阪城)の惣構え内部の武家屋敷跡地で、細川ガラシの歌碑など歴史マニアにとって垂涎の場所です。また、キリスト教関連の施設も多く、見学に最適です。ぜひ歴史の道をたどってください。

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細川屋敷跡とガラシャ夫人の歌碑

細川屋敷跡とガラシャ夫人の歌碑

写真:菊池 模糊

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大坂城は豊臣秀吉の時代には現在の四倍以上の広さがある非常に巨大な城で、惣構え(総構え)の内部には有力大名の武家屋敷も含まれていました。現在の大阪城南側にある細川屋敷跡から真田丸跡地などを訪ねると、その広さを実感できます。

JR大阪環状線または地下鉄(中央線または長堀鶴見緑地線)の森ノ宮駅から、中央大通りを西へ歩き、コンビニの角を左折し南へ下り100mくらいの所に細川越中守屋敷跡があります。越中井(えっちゅうい)とも呼ばれますが、これは屋敷の当主である細川忠興が越中守であったことから来ています。

石造りの井戸跡と地蔵堂、碑があり、細川屋敷の台所のあった場所と伝えられます。細川忠興の妻の細川ガラシャ最期の地として知られ、その死の際、火がつけられ井戸だけが焼け残ったそうです。

細川屋敷跡とガラシャ夫人の歌碑

写真:菊池 模糊

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「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」

この碑は昭和期に大阪市婦人連合会により建てられたもので、側面にはガラシャの辞世の句があります。

細川ガラシャは、明智光秀の娘で名を玉(珠子)といい、美人の誉れ高い女性で、光秀の畏友:細川藤孝の子である細川忠興に嫁ぎました。しかし、光秀が本能寺の変をおこしたことから謀反人の娘として一時丹後山中に幽閉され、後に豊臣秀吉の取りなしにより、細川家の大坂屋敷に戻されました。こうした中で、夫:忠興の友人でキリシタン大名だった高山右近のことを聞いた玉はカトリックに興味を持ち、やがて入信し受洗。ガラシャはその洗礼名で賜物(恩寵)を意味し、本名の玉に通じることから名づけられたものです。

関ヶ原の戦いの直前、決起した石田光成は、大坂の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを拒絶し、家臣に命じ胸を貫かせて死にました。キリスト教では自殺は禁じられているからです。

ガラシャの死は、徳川方の大名に大きな衝撃を与え、関ヶ原の戦いにおける東軍の結束を固める一つの要因となりました。後に細川氏は、肥後熊本藩主となり明治維新に至ります。この碑は、その熊本出身の縁から徳富蘇峰が揮毫したものなので、非常に力強い文字になっています。

旧町名継承碑と青刻昆布発祥の地碑

旧町名継承碑と青刻昆布発祥の地碑

写真:菊池 模糊

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越中井の付近は、近年まで「越中町」とされていました。住居表示施行に伴って、地名が変更されてしまいましたが、その歴史を示す「旧町名継承碑」があります。

地元の人たちの、越中守忠興とガラシャ夫妻への思い入れが感じられる史碑といえるでしょう。

旧町名継承碑と青刻昆布発祥の地碑

写真:菊池 模糊

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越中井の南すぐの越中公園の道路沿いに「青刻昆布発祥の地」の碑があります。 この碑は、2001年に大阪昆布商工同業会が設立100周年を記念し建立したものです。

刻み昆布は、昆布加工食品の原点で、煮た昆布を細かく刻んでから乾燥したもの。この近辺で製造されはじめ、煮物として愛用されました。やがて、とろろ昆布や塩昆布など、大阪の食文化を象徴する高級な細工昆布の隆盛を迎えます。昆布は関西のダシ文化にも欠かせないものとなりました。

北前船が米や酒を北海道に運び、帰りは昆布を買い付けて帰ってくることで、昆布加工産業が発展したわけです。伝説によれば、大坂城を築く際に、巨大な石を運ぶため、昆布を石を滑らせる潤滑剤として大量に使ったことから、この近辺の昆布需要が高まり、それをきっかけに大阪人は昆布に親しむようになったそうです。

聖マリア大聖堂とファティマ群像

聖マリア大聖堂とファティマ群像

写真:菊池 模糊

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「青刻昆布発祥の地」の碑のある越中公園の南側に「聖マリア大聖堂」があります。キリスト教のカトリック玉造教会 であるとともに、カトリック大阪大司教区(大阪府・兵庫県・和歌山県)の司教座聖堂であることから、正式名を「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」といいます。

ここは、1894年に建てられた聖アグネス聖堂を起源としますが戦災で焼失。その後、ザビエル来日400年記念に聖フランシスコ・ザビエル聖堂として再建され、さらに1963年に青銅板葺きの大伽藍として改築され現司教座聖堂「聖マリア大聖堂」となったものです。

大聖堂内部にはイエス・キリストと聖母マリアの生涯を描いたステンドグラスと細川ガラシャの壁画。さらに小聖堂にはフランシスコ・ザビエルを描いた日本的なステンドグラスがあります。いずれも見事なものなので、余裕があれば見学してください。

聖マリア大聖堂とファティマ群像

写真:菊池 模糊

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大聖堂前の広場には、ファティマのマリアがあります。

ファティマとはポルトガルの小さな村で、1917年に三人の羊飼いの子ども達の前に聖母マリアが出現しました。カトリックが公式に承認した奇跡とされています。その情景を再現したのが、この大聖堂前の大理石群像です。

細川ガラシャ像と高山右近像

細川ガラシャ像と高山右近像

写真:菊池 模糊

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聖マリア大聖堂外側正面の右には、大きな細川ガラシャ像があります。カトリック信徒の彫刻家である阿部政義の制作です。

細川ガラシャは日本を代表するキリスト教の女性信徒であり、すぐ近くの細川屋敷で壮絶な死をとげました。

ガラシャ夫人の死を知った司祭オルガンティーノは、女性信徒に命じて焼け跡からガラシャの骨を拾わせ、堺のキリシタン墓地に葬りました。細川忠興も妻の死を悲しみ一周忌を兼ねて行われたキリスト教会葬に参列し涙にくれたそうです。

細川ガラシャの供養塔は京都大徳寺の高桐院にあり、大阪の細川家菩提寺である崇禅寺には墓があります。さらに、熊本市の出水神社では祭神の一人として祀られています。
ガラシャの画としては、イスラエルの受胎告知教会にある、長谷川ルカ画伯が描いた『華の聖母子』というモザイク画が有名ですが、それについては、下記関連メモから「【たびねす】受胎告知教会も!イエスの育ったナザレの町を歩こう」という記事をご覧ください。

細川ガラシャ像と高山右近像

写真:菊池 模糊

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大聖堂外側正面の左には、キリシタン大名の高山右近像があります。ガラシャ像と同じく阿部政義の手になります。

高山右近は、下剋上でのしあがった戦国大名の一人で摂津・高槻城主でしたが、人徳者として知られる敬虔なキリスト教徒でもありました。洗礼名のユストは「正義の人」を意味します。織田信長や豊臣秀吉につかえ、右近の人柄に惹かれた黒田官兵衛などの戦国大名を受洗させました。高槻では領民に慕われ七割の人がキリスト教徒となったそうです。

しかし、秀吉の伴天連追放令により、信仰を守るために領地を捨て、小西行長や前田利家の庇護を受けました。さらに、徳川家康のキリシタン国外追放令により、マニラに送られ現地で亡くなりました。右近像は高槻とマニラにもあります。
後世になりますが右近は、ローマ教皇庁により「福者」に認定され、2017年に大阪城ホールで列福式が挙行されました。

この近辺から南へ下ると、イエズス修道女会をはじめ城星学園、大阪女学院、大阪クリスチャンセンター、大阪明星学園などキリスト教に関連する施設や学校がたくさんあります。ガラシャとの不思議な縁を感じさせる場所です。

最後に

細川屋敷跡や聖マリア大聖堂がある場所から南へ、下り坂になっています。これは、大坂城の南側の空堀のあった地域と考えられます。

もともと、大阪平野に突き出した一本の背骨のような丘陵が上町台地で、その先端に大坂城があります。その地形を利用した大坂城は、南部だけは丘陵地帯で城としての弱点となるので、空堀を造る必要がありました。その際に利用されたのが、自然の浸食谷で、現在の空堀町から空堀通りに続く低地です。

まさに、この堀の北側(城の内側)には細川屋敷跡があり、南側(城の外側)には真田丸があったわけです。ここを歩いて、せび地形と地名が語る歴史のロマンを感じてください。

なお、すぐ南にある真田丸跡地については、下記関連メモから「【たびねす】真田丸は果たしてどこにあった? 跡地を歩いて推理しよう!」という記事をご覧ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/05/31 訪問

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