「紫電改展示館」は宇和郡愛南町の馬瀬山頂公園内にある展示館で、入場は無料となっています。近くに宇和海展望タワーや小さいながらも動物園があり、楽しめる場所です。ところでなぜ、紫電改はこの場所に展示されているのでしょうか。
昭和53年(1978年)11月、愛南町久良湾の海底約41mに、ほぼ原形のまま沈んでいる紫電改が地元のダイバーによって発見されたことが発端です。翌年7月になり、34年の時を経て引き揚げられました。
戦時中の昭和20年(1945年)7月24日、米軍約200機を迎撃するため約20機で発進。その後、豊後水道上空で交戦となったのです。その戦闘による未帰還機6機のうちの1機が、海底で発見された紫電改。
この引き揚げられた「紫電改」は、馬瀬山山頂公園に恒久平和のシンボルとして展示されることになります。
本物だけがもつ迫力。それを手が届くような距離で見ることが出来るので、圧倒的な存在感を感じてみて下さい。
世界で残されている四機の中で、日本で唯一「紫電改展示館」に展示されている本物の戦闘機。貴重な紫電改はどのような経緯で作られたのでしょう。
日本の戦闘機で有名なものは何と言っても零式艦上戦闘機である通称ゼロ戦(零戦・レイ戦)。しかしながら戦争が続いていく間に研究され、やがてはゼロ戦の能力であっても交戦が難しい戦闘機が敵により開発されてきます。そこで紫電改は、ゼロ戦の次の新鋭機として終戦間近に開発されたのです。当時、海軍においてもっとも優れた戦闘機と言われたのです。
そもそも紫電改には「改」の字が使われています。最初に開発されたのは紫電。紫電は極地戦闘機として開発されました。その紫電の二一型以降が紫電改と呼称されたのです。当時の搭乗員からは「紫電」と「紫電改」は別の呼び方をされていた記録が残されています。紫電が「J」と呼ばれ紫電改が「J改」です。
このような呼び方は親しみを込めて、また暗号の意味を含め重要だったことでしょう。なお、紫電改前の紫電は、試験のために米国に送られた経緯がありますが、現存しているものはありません。
展示されている紫電改の正面側から後方に向かって、階段を上り二階から見下ろすことが出来ます。上からは操縦席も見えます。紫電改の防弾ガラスは厚さが20mmある硬化ガラスを3層にしたもの。
二階からだからこそ分かる全体像。そこから機体の美しさが感じられるのではないでしょうか。
展示館には紫色のマフラーが展示されていますが、「ニッコリ笑えば必ず墜す」と書かれています。これは最終階級で海軍少尉になった杉田庄一の座右の銘でした。撃墜王と言われた彼は、昭和20年(1945年)4月15日に戦死しています。杉田には恋人がいましたが、わずか20歳で亡くなったのは戦争の残酷さと言えるのでは。
当時、紫のマフラーは38枚作られましたが、現存するのは3枚のみ。もちろん展示館にあるのは本物で、3枚の内の1枚なのです。
「紫電改展示館」で、当時の日本人の生き様に触れる旅が出来るのではないでしょうか。じっくりと思いをはせてみて下さい。
紫電改展示館では、記録映像のほか、部品や銃弾等の実物展示もあり、当時の技術を知る上でも貴重な見学も出来ます。また、「紫電改のタカ」を含めたお土産品も豊富にありますので、来館の記念に購入してみてはいかがでしょうか。
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