写真:モノホシ ダン
地図を見る江差港にある財団法人「開陽丸青少年センター」に行ってみましょう。ここでは建造国のオランダに残されていた設計図をもとに、1990年(平成2年)4月に実物大で復元された開陽丸を見ることができます。見学料は大人500円です。
なお開陽丸青少年センターは「海の駅」も兼ねています。海の駅とは道の駅のいわば「海版」で、ヨットやモーターボートの係留施設を持っていてクルージングやフィッシングの拠点となっています。
写真:モノホシ ダン
地図を見る「開陽丸」は、1866年10月に鎖国以来の友好国であるオランダで作られた軍艦で、約150日間かけて日本に回航され、1867年3月に横浜に到着しました。艦への入り口に「徳川幕府最強の軍艦!日本初の海底遺跡!」と書かれているのは、当時最新の大砲であった「クルップ砲」や「砲弾」を装備していたからです。
動乱の幕末期、幕府海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)がこの艦と艦隊を奪って、旧幕臣のための蝦夷共和国建国の占領作戦の途上で、暴風雨のためにこの江差沖に沈んでしまった開陽丸。その後の1975年(昭和50年)から始まった引き揚げ作業において、日本初の海底遺跡に登録をされています。
写真:モノホシ ダン
地図を見る「開陽丸」の諸元は、排水量約2590t、全長約72m、幅約13m、高さ約45m、3本マストの汽帆船です。補助蒸気機関は約400馬力で、蒸気エンジンだけで約10ノット(約18km)で航行することができました。復元された開陽丸の外観に注目して見ると、艦首と艦尾につけられている徳川家の「三つ葉葵」の紋章がなんと「ハート型」に。
これは開陽丸建造にあたり、幕府側は艦につける徳川家の家紋「三つ葉葵」の絵柄をオランダ側に渡していたのですが、オランダ側の紋章製作者が当時、ヨーロッパでよく使われていたハート型と誤認したため、このようなちょっとユニークなことになりました。
写真:モノホシ ダン
地図を見る復元された開陽丸の船内には、作戦室で六角テーブルを囲む海軍副総裁の榎本武揚や新選組副長の土方歳三らの等身大の人形があります。いずれも蝦夷共和国の設立の理想に燃えた様子が伺えます。
写真は開陽丸の備砲で、総計35門が搭載されていました。そのうち18門が最新式の16センチクルップ砲でした。このクルップ砲というのは後装式の「施条砲(せじょうほう)」というもので、砲の後部から装弾し、砲の内側に入れられた螺旋状の溝によって尖頭弾に回転力を与え、射程距離と命中率を高めたものです。
このクルップ砲の有効射程距離は約3900mにおよび、当時の軍艦の常識を超える、砲弾の届かないアウトレンジから敵艦を一方的に砲撃することができました。
写真:モノホシ ダン
地図を見る開陽丸は蒸気船でしたが、帆を展開して帆走もできるいわゆる汽帆船でした。写真の煙突は、帆走時には潜水艦の潜望鏡のように艦内に収納できるような仕組みになっています。
また蒸気船としての推進システムでは、スクリュープロペラを使った「スクリュー船」でした。これは幕末に浦賀沖に現れたペリー艦隊の蒸気船さえ、水車のような外輪で水を掻いて進む「外輪船」だったことを思うと画期的なことでした。
写真:モノホシ ダン
地図を見る開陽丸が暴風雨に襲われ江差沖に座礁・沈没したのは、1868年11月15日の夜。土方歳三らと打ち合わせて、江差攻略戦に参加した際の遭難でした。開陽丸の喪失により、旧幕府軍の海軍力は急速に低下。逆に勢いづいた明治新政府軍の攻撃を受け、翌年の1869年(明治2年)5月に榎本武揚ら旧幕府軍は降伏することになります。
写真は沈没した海底から引き揚げられた開陽丸の尖頭弾です。船内には他にもサーベルや拳銃、食器や医療品など約3000点が展示されています。これらの遺物は約100年間も海底に眠っていたため、崩壊を防ぐための塩抜き作業は困難を極めたそうです。
写真:モノホシ ダン
地図を見る当時の艦内で船員の寝具は「ハンモック」でした。ハンモックは船の左右の傾斜にかかわらず常に水平を保つことができるため、第二次世界大戦のころまでは、艦船用の寝具として重宝がられました。現在の艦船では、エンジンによって航行することにより左右への動揺度が減ったため多段ベッドが主流になっています。写真はハンモックで寝ている開陽丸の船員の様子を再現したものです。
写真:モノホシ ダン
地図を見る船内には各種の体験コーナーがあります。ハンモック体験コーナーでは、実際に横になって寝心地を体験することができます。試しにやってみると慣れるまでバランスを取るのが意外と難しいことがわかりますよ。
写真:モノホシ ダン
地図を見るほかに、大砲の発射音を疑似体験できるコーナーもあります。当時の最新技術が惜しみなく注ぎ込まれた開陽丸は、建造国のオランダでさえ「このような強力な軍艦を我々は持っていない」と言わしめるほどでした。
いかがでしたか。当時の日本最強軍艦の開陽丸の日本での生涯は、わずか1年半ほどの短いものでした。しかし、そのもたらした影響力はきわめて絶大なものがありました。それは、もし開陽丸がなければ箱館戦争は起きなかったかも知れないといわれているからです。
その説の根拠は、箱館戦争を起こすきっかけとなった幕府海軍副総裁の榎本武揚が最強軍艦と謳われた開陽丸の絶対的武力を知り尽くしていたからで、それが旧幕臣のための蝦夷共和国の建設を思い立った英雄的行動の原動力ともなっていました。ですからもし開陽丸がなければ、榎本は新政府軍に対抗する手段を持たず、蝦夷地にも行こうとは思わなかったはずです。
そういった意味で、開陽丸の存在は年月に関係なく日本史を変える力となっていたのです。たった一隻で歴史を変えた悲劇の軍艦「開陽丸」。その実像は一体どのようなものだったのか。江差に行ったら開陽丸青少年センターを訪れて確かめてみるのも面白いと思います。
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(2024/9/11更新)
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