急げ!高知県のドランクドラゴン塚地氏先祖邸跡と城跡が消える

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急げ!高知県のドランクドラゴン塚地氏先祖邸跡と城跡が消える

急げ!高知県のドランクドラゴン塚地氏先祖邸跡と城跡が消える

更新日:2017/07/13 13:00

春野 公比呂のプロフィール写真 春野 公比呂 学芸員資格

2015年秋、ドランクドラゴン塚地武雅氏の先祖邸跡等がテレビで放送され、反響を呼びましたが、その後、その屋敷跡と背後の中世の城跡が開発で消滅することが決まりました。屋敷跡は屈指の規模を誇る城跡の縄張内にありますが、そこは坂本龍馬が歩いた街道沿いでもあります。城跡後方にはパノラマ山、塚地ファミリーゆかりの風光明媚な砂浜等もあり、龍馬や塚地ファンならずとも訪れてみたくなるのではないでしょうか。

塚地姓の由来

塚地姓の由来

写真:春野 公比呂

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高知県黒潮町入野にある先祖邸跡の北と南にあった小屋が、2016年から2017年にかけて撤去されているので、開発工事(バイパス道路と宅地開発)は早ければ2018年春にも開始されるかも知れません。だからできるだけ早く訪れることをお勧めします。

塚地家の家系図は、塚地武雅氏の高祖父・伊三吉(いさきち)まで遡って描かれていますが、この人物が生きたのが龍馬時代の幕末です。自宅の玄関側に一里塚(入野本村一里塚)があったことから、塚地姓を名乗ったと言います。

一里塚跡は写真に写る塚地邸跡手前の小屋跡の地で、龍馬が歩いた土佐西街道と橘川古道との分岐にありました。龍馬は嘉永3年(1850)の16歳時、四万十市の四万十川堤工事の現場監督補佐として出張する際、この土佐西街道を通っています。

塚地姓の由来

写真:春野 公比呂

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塚地氏は代々左官の棟梁で、武雅氏の祖父・藤吉氏の代まで受け継がれていました。一家は昭和10年までこの地で暮らしていましたが、現在、屋敷跡には基礎のみが残り、ヤブに覆われています。

塚地姓の由来

写真:春野 公比呂

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塚地氏は隣の橘川村(現、黒潮町大方橘)へ仕事で出かける際は、橘川古道を登って行きましたが、この道は八丁山(287.8m)西の山伏峠を越えており、この峠道と八丁山登山道は平成15年、地元有志によって整備されました。

現在、橘川古道は八丁山登山口手前の墓地公園まで車道化されていますが、塚地邸跡から歩けない距離ではありません。車の場合は墓地公園駐車場に駐車しましょう。シダが道に覆い被さるようになっている、南国の里山特有の植生が見られます。

陸軍陣地と展望の八丁山

陸軍陣地と展望の八丁山

写真:春野 公比呂

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八丁山南の稜線上で八丁山登山道が分岐していますが、まずは塚地氏先祖に思いを馳せ、山伏峠まで登ってみましょう。かつて木材や薪炭類の搬出にも使用されていた道だけあり、起伏は緩やかですが、道に倒れ掛かった木々を除けて通る箇所もあります。山伏峠は植林の尾根上です。

陸軍陣地と展望の八丁山

写真:春野 公比呂

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八丁山登山道沿いには、陸軍の一人用竪穴型防衛陣地「蛸壺壕跡」が複数残っています。南東の早咲周辺に山砲連隊が展開し、且つ、海岸に近いということからこの尾根に陣地が築かれたのでしょう。

陸軍陣地と展望の八丁山

写真:春野 公比呂

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八丁山山頂からは屈指のパノラマが広がっています。武雅氏の父や伯父が遊んだ入野松原から、防空監視哨跡のある遠見(149m)を擁す井の岬まで一望できます。

展望が蘇った城跡

展望が蘇った城跡

写真:春野 公比呂

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塚地邸跡背後にあった平山城の入野城は中世、大方郷を領した入野氏の本拠だっただけに大規模。室町時代初期に築城され、永正17年(1512)、城主が討死したことにより、廃城になっています。

近代以降、城跡は段畑になったため、元の形状は分かりませんが、山頂の本丸跡は比較的よく残っています。

展望が蘇った城跡

写真:春野 公比呂

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南西の二番目に高い箇所が二ノ丸跡。ここは地形が改変されています。下の帯曲輪(おびぐるわ)のような所は野鍛冶跡。

展望が蘇った城跡

写真:春野 公比呂

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2016年秋から2017年初頭まで、城跡では発掘作業が行われていたため、周囲の木々が伐採され、往時の展望が蘇りました。

戦後の塚地家は食堂に

戦後の塚地家は食堂に

写真:春野 公比呂

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昭和10年、塚地一家は一旦大阪府に移り、セメントの防火水槽製作を始めます。これが当たって財を成し、その地で武雅氏の父・武志氏が生まれました。しかし大黒柱の藤吉氏が昭和20年後期、事故によって仕事ができなくなり、一家は再び入野に帰って来ます。

今度は住宅街の中に住み、藤吉氏の妻で武雅氏の祖母・ヒサ子氏が自宅で食堂を開業します。写真の電柱箇所に柳の大木があったことから、店(現、空き家)は「柳」と通称されました。

武志氏は高校を卒業すると大阪に移り、就職します。一家も昭和30年代後期、再び大阪に戻ります。武雅氏は大阪府阪南市で生まれ育ちました。

戦後の塚地家は食堂に

写真:春野 公比呂

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武志氏やその兄弟たちが遊んだ入野松原は、全長4kmの砂浜に数十万のクロマツが植栽された国定名勝。天正時代(1573〜92)、四国の覇者・長宗我部元親の家臣、谷忠兵衛によって植栽され、後世、増植されていきました。

戦後の塚地家は食堂に

写真:春野 公比呂

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入野松原の西際を土佐西街道が南下しており、大木等にその風情を感じます。

海底にある古代の道しるべ

海底にある古代の道しるべ

写真:春野 公比呂

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土佐西街道は加茂神社参道口の一つで向きを直角に変え、塚地先祖邸跡へと向かいますが、そこには近代に新設された道しるべが建っています。「足摺山 十一里」と刻字されていますが、その傍らには龍馬が通った時代の旧道しるべが折れて佇んでいます。

海底にある古代の道しるべ

写真:春野 公比呂

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「足摺山 十一里」という道しるべは白鳳13年(684)まで、入野漁港の海にある岩礁「オキノショウジ礁(ばえ)」(写真)の水深8m位の所にありました。その岩礁の壁面に刻字されていたのです。しかし同年に起こった「白鳳の大地震」で大部分が海没してしまいました。

海底にある古代の道しるべ

写真:春野 公比呂

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白鳳13年までオキノショウジ礁の南東にあった小山も大地震によって中腹まで水没し、「小島」となりました。昭和21年小島沖で、白鳳の大地震によって海没した建造物の切石群が発見されています。昭和期、小島は堤防で陸続きになりました。武志氏は大阪から入野の実家に帰省した際、この小島前で記念写真を撮っています。

「タレント・ルーツ聖地」と言う名のツーリズム

今回ご紹介した旅は言うならば、「タレント・ツーリズム」。タレントの先祖等の関連地は「タレント・ルーツ聖地」と言えるでしょう。当該タレント・著名人はどこから来たのか、ルーツは何なのか、先祖はどういう人物でどんな所に住んでいたのか等々気になる方は多いことでしょう。

武雅氏の先祖が歩いた峠道を辿り、その先祖と龍馬との繋がりを街道や道しるべで感じ、祖父母が散策していた名勝の松原を歩き、父が都会での成功を誓い、写真を撮った小島で記念写真を撮り、彼らと同じ空気を吸い、今に至る武雅氏の活躍に思いを巡らせてみましょう。

掲載内容は執筆時点のものです。 2011/04/24−2017/07/02 訪問

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