伊賀上野城跡を観光するなら、知っていたほうが楽しめる5つの話

伊賀上野城跡を観光するなら、知っていたほうが楽しめる5つの話

更新日:2017/08/04 15:06

塚本 隆司のプロフィール写真 塚本 隆司 ぼっち旅ライター
三重県伊賀市の中央、伊賀上野城跡にそびえ建つ天守。町のシンボルといえるこの天守は、昭和の初めに「伊賀文化産業城」として築かれた木造模擬天守だ。
石垣の見事さから「日本100名城」にも選定されている伊賀上野城跡だが、歴史を振り返れば時代に翻弄された人々の苦悩が見えてくる。
模擬天守「伊賀文化産業城」誕生へと続く歴史と共に伊賀上野城の魅力にせまりたい。

其の壱.伊賀上野、謎めく神秘の国が生まれた地勢

伊賀といえば忍者。そんなイメージから、どこか謎めく隠れ里のような所と思っている人も多いのでは。

伊賀市は、山に囲まれた盆地にあるものの京都・奈良・滋賀の3府県に隣接する珍しい市。東海地方(三重県)にありながら、関西文化の影響を大きく受けている。
食文化も同じだ。うどんひとつにしても、伊勢うどんでもなく味噌煮込みでもない。カツオと昆布のだしが利いた関西のうどんが好まれている。
(写真:見た目は伊賀らしい忍者うどん。だしは関西風。伊賀鉄道伊賀線の上野市駅前「ニカク食堂」)

其の壱.伊賀上野、謎めく神秘の国が生まれた地勢

写真:塚本 隆司

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京都や奈良の都に近いうえ古くから街道が通り、人や物・情報が行き交う要衝。時勢に敏感でなくてはいられなかった。地理的要因は、忍者という謎めく集団が生まれた背景に大きく影響している。
戦国時代になると信長・秀吉・家康と時代のリーダーが変わる度に翻弄(ほんろう)され、伊賀上野城は都度変貌していった。

其の壱.伊賀上野、謎めく神秘の国が生まれた地勢

写真:塚本 隆司

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其の弐.信長・秀吉・家康時代の伊賀上野城跡

平安時代、伊賀上野城跡には平清盛が造営したといわれる上野山平楽寺があった。寺社の勢力が強い土地で国主はいても力なく、豪族ら伊賀衆の寄り合いで治められていた。

伊勢国に続いて伊賀国も手中に収めようとしていた織田家が伊賀に攻め入ると、伊賀衆はあらがい戦う道を選んだ。「天正伊賀の乱」だ。一度は撃退したものの、二度目は多勢に無勢。村や寺院は焼き払われ、多くの人が命を落とし、生き残った伊賀衆も他国へと逃れていった。

当時の面影は、上野公園内の観光案内所から伊賀流忍者博物館へと向かう道沿いに建つ石仏石像のみが伝えている。

其の弐.信長・秀吉・家康時代の伊賀上野城跡

提供元:公益財団法人伊賀文化産業協会

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豊臣期に入ると筒井定次(つついさだつぐ)が国主となり、1585(天正13)年に3重の天守をもつ城が完成した。場所は現在の天守の東側、城代屋敷跡(筒井古城跡)。この城の役目は、大阪・京都を東からの脅威に備えることにあった。
写真は、天守最上階から望む城代屋敷跡。

其の弐.信長・秀吉・家康時代の伊賀上野城跡

写真:塚本 隆司

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関ヶ原の合戦で筒井家は東軍につくも後に改易。新たな国主は築城の名手といわれた藤堂高虎だった。役割は筒井家時代の正反対。大阪ににらみを利かせるための徳川陣営の城として、全面改修された。この頃、離散していた伊賀衆を呼び戻し保護したことが知られている。

其の弐.信長・秀吉・家康時代の伊賀上野城跡

写真:塚本 隆司

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其の参.1番の見どころ、築城の名手藤堂高虎が築いた高石垣

其の参.1番の見どころ、築城の名手藤堂高虎が築いた高石垣

写真:塚本 隆司

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藤堂高虎は、5層5重の天守を築くも、完成間近の1612(慶長17)年に暴風のため倒壊。その後天守が再建されることはなかった。
翌年、城代を残し津城(三重県津市)を本城とするが、ここでも天守は造られなかった。築城の名手の居城に天守がないとは、残念だったに違いない。現在、城代屋敷跡(筒井古城跡)から見る天守の姿は、藤堂高虎悲願の眺めかも知れない。

其の参.1番の見どころ、築城の名手藤堂高虎が築いた高石垣

写真:塚本 隆司

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藤堂高虎らしさが残るスポットといえば、伊賀上野城本丸の「高石垣」。もう1人の築城の名手・加藤清正の石垣に見られる「扇の勾配」に比べ、藤堂高虎の石垣は直線的な姿をしている。
高さは約30メートル。今でこそ大阪城の高石垣と一二を争う高さだが、築城当時は他に例のない桁外れの高さだった。
天守台から下をのぞくと足がすくむ。フェンスも無くロープが張られているだけなので、近づく際には注意が必要だ。

其の参.1番の見どころ、築城の名手藤堂高虎が築いた高石垣

提供元:公益財団法人伊賀文化産業協会

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オススメの撮影スポットは内堀の西側。高石垣が雑草に覆われている時もあるが3年に一度(2017年は11月に予定)自衛隊員らによる除草作業が行われ、すっきりとした姿を見せる。
伊賀上野城の高石垣を見ていると、伊賀忍者なら登れるのか、それとも忍者でも登れない石垣を造ったのか、考えずにはいられない。

其の四.木造模擬天守「伊賀文化産業城」は市民悲願の城

其の四.木造模擬天守「伊賀文化産業城」は市民悲願の城

写真:塚本 隆司

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大阪で新時代の象徴として最新の建築技術による鉄筋コンクリート製の大阪城天守閣が再建された1931(昭和6)年、伊賀上野でも天守の再建が検討されはじめた。
1935(昭和10)年、伊賀出身の代議士・川崎克が支援者の協力を得ながら私財を投じ、木造建築による模擬天守「伊賀文化産業城」を完成させる。天守閣復興の根本信念は”攻防作戦の城は亡ぶる時あるも、産業の城は人類生活のあらん限り不滅である”と記されている。

其の四.木造模擬天守「伊賀文化産業城」は市民悲願の城

写真:塚本 隆司

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模擬天守は3層3重だが、その高さは藤堂高虎が造ろうとした5層の天守に匹敵する。姿形は当時の資料が残っていないためわからないものの、藤堂高虎が見たかった風景に違いない。
この城郭は古くから「白鳳城」と呼ばれていた。市民の思いが形となった現天守閣の姿は、まさに鳳凰が翼を休めている姿にたとえられ「白鳳城」の別名にふさわしい。

其の四.木造模擬天守「伊賀文化産業城」は市民悲願の城

写真:塚本 隆司

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写真は大天守入り口に飾られた「鳳凰雙飛」の扁額と藤堂高虎像、マスコットキャラクターの「た伊賀ーくん」。
売店には「た伊賀ーくん」がデザインされた今治タオルがある。藤堂高虎が今治から伊賀へと転封となっただけに、歴史好きならこのつながりに興味を示さずにはいられない。

其の五.江戸・昭和・現在を見せる展示に注目

其の五.江戸・昭和・現在を見せる展示に注目

写真:塚本 隆司

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内部は資料館になっている。天井が高く江戸時代の城とは異なるものの、建築から80年を超えた木造模擬天守ならではの風格がある。
展示品には、藤堂高虎が豊臣秀吉から贈られた「唐冠形兜(とうかんなりかぶと)」をはじめ、武具や藤堂家の調度品など戦国マニア必見の展示が並ぶ。また、伊賀上野出身の俳人松尾芭蕉のゆかりの品も見られる。
小天守にも展示があり、抜け穴につながっているといわれる「忍び井戸」も必見だ。

其の五.江戸・昭和・現在を見せる展示に注目

写真:塚本 隆司

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天守最上階から眺める城下町の風景に目を奪われる。この天守が完成した時に登った人たちは、初めて見下ろす伊賀の町並みにきっと感動したことだろう。
天守最上階でもうひとつ注目したいのが、格天井の色紙絵。築城当時の財界人や文化人による46点もの色紙絵が並ぶ。中央には画家・横山大観の「満月」、そのとなりには私財を投じた川崎克(号・克堂)の絵が飾られている。

其の五.江戸・昭和・現在を見せる展示に注目

写真:塚本 隆司

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天守内部1階にズラリと並んだ顔出しパネルもおもしろい。どこの観光地でも、おきまりのようにある撮影スポットだが、ふすまとしてこれほど並ぶと壮観。社員旅行や卒業旅行など、みんなで記念撮影すると楽しそうだ。

郷土愛を育む悲願の木造模擬天守「伊賀文化産業城」

城といえば、江戸時代から残る現存天守や復興天守を好む人が多いが、地域の人たちの思いが詰まった模擬天守には、他にはない趣がある。中でも伊賀上野城跡は歴史の波に翻弄(ほんろう)されてきた藤堂高虎をはじめ、伊賀に住む人たちの悲願の天守。再建にかけた熱い思いを感じ取ることができる。

戦いの城ではなく、郷土を思う心のよりどころとしての天守。再建にかけた思いや守り続ける思いを感じながら、伊賀上野城跡を巡りたい。模擬天守ならではの見どころが、ここにはある。単に資料館だと思って訪れるのは、もったいない。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/06/23 訪問

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