写真:肥後 球磨門
地図を見る碧い海が広がる東シナ海の角力(すもう)灘を見下ろすように建っているのが遠藤周作文学館です。国道202号線にある「道の駅夕陽が丘そとめ」の傍にあり、長崎市内から佐世保方面へ国道202号線を車でおよそ30分で到着します。
写真:肥後 球磨門
地図を見るキリスト教が禁止されていた時代、潜伏キリシタンが多く住んでいた外海地区は、遠藤文学の原点とも言われる「沈黙」の舞台となった場所です。遠藤周作はこの地を第二の故郷としてこよなく愛し、その縁もあって遠藤没後の平成12年(2000年)に「遠藤周作文学館」が外海に開館しました。文学館では遠藤周作の遺品や生原稿、蔵書などの展示とともに彼の生涯が紹介されています。
文学館には喫茶室も併設されているので、美しい角力湾の景色を見ながら遠藤周作を偲ぶ時間を過ごしてみてはいかがでしょうか。
写真:肥後 球磨門
地図を見る遠藤周作文学館から佐世保方面へ車で数分の場所に「出津(いづ)文化村」があり、文化村内にフランス人宣教師マルク・マリー・ド・ロ神父が設計施工した出津教会堂が建っています。ド・ロ神父はフランスの貴族で、外海などに沢山の潜伏キリシタンがいることを知って日本に来ることを熱望した神父です。
1882年(明治15年)に建てられた木造平屋建ての教会は、外国人神父の設計による希少な初期教会として2011年(平成23年)に国の重要文化財に指定されました。
写真:肥後 球磨門
地図を見る出津教会堂は、一般的な教会堂よりも建物の高さが低い設計になっていて、これはド・ロ神父が台風などの強風から大きな被害を受けないように考えたことからです。決して豪華な教会堂ではないですが、山の緑の中に溶け込む漆喰の白壁が清楚な佇まいで、ここを訪れ当時のド・ロ神父と信者の交流について思いを巡らせてはいかがでしょうか。
写真:肥後 球磨門
地図を見る遠藤周作文学館から長崎市内方面へ車で3分、明治大正期に建築された教会堂最後のレンガ建築といわれる黒崎教会があります。明治になってキリスト教の禁教が解かれた後、外海の潜伏キリシタンだった多くの信者は、ド・ロ神父が建設した出津教会堂で礼拝を行っていました。
しかし、黒崎地区から出津教会までは数時間の道のりで不便だったため、信者の要望で黒崎教会が建てられることに。1897年(明治30年)から3年の歳月をかけて、信徒総出で教会堂建設のための敷地を整備しましたが、資金難のため建設が一時中断しました。教会堂建設計画から23年経過した1920年(大正9年)にようやく完成しましたが、子供たちもレンガ運びに奉仕するなど、信者が一つ一つレンガを積み上げて作り上げた教会堂です。
写真:肥後 球磨門
地図を見るレンガの美しさを際立たせた外観の黒崎教会堂ですが、内部もステンドグラスやアーチ型天井がとても印象的で、質素な出津教会とは対照的です。マリア像がやさしく迎える美しいロマネスク様式の教会を訪れ、信者のキリスト教に対する強い思いを感じてはいかがでしょうか。
写真:肥後 球磨門
地図を見る「出津文化村」の入り口に「沈黙」の碑が立っています。角力灘を一望できるこの場所を遠藤周作は大変気に入って、“神様が僕のためにとっておいてくれた場所”と評しました。さらに文学碑の除幕式の後では「僕にとってこの碑はベターではなくベストだ」と語ったといわれ、外海に対する思い入れを表すエピソードになっています。
写真:肥後 球磨門
地図を見る碑には遠藤周作の言葉で「人間がこんなに哀しいのに主よ海があまりに碧いのです」と書かれています。この言葉は、彼の代表作「沈黙」を読んだ後であれば、なおさら強く心に残る言葉になるのではないでしょうか。「沈黙」の中では「トモギ村」とされている外海に立つ「沈黙の碑」から、美しい角力灘を望み小説の世界に迷い込んでみてはいかがでしょうか。
長崎市の外海にキリスト教が布教されたのは西暦1571年といわれています。その後江戸幕府のキリシタン禁教令で、信者は潜伏キリシタンとして過ごしました。遠藤周作はこの外海を舞台にして、外国人宣教師がキリスト教を棄てるまでの物語を書きました。それが「沈黙」です。
宣教師が密入国してきた東シナ海を望む潜伏キリシタンの里、そして遠藤周作の文学の原点といわれる「沈黙」の舞台となった外海を訪れてはいかがでしょうか。
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(2024/4/19更新)
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