写真:阿部 吾郎
地図を見る兵庫県の内陸部、宍粟郡から養父市方面へ抜ける県道6号線沿いに明延(あけのべ)坑道の入口がある。この扉の向こうに、全長550km(東京-大阪間より長い!)、深さ1000m(東京スカイツリーより深い!)の坑道が続いているとは想像できない。
この坑道の、ほんの一部だが明延鉱山探検坑道として開放されている。コースを巡るには、必ずガイドと行動を共にする必要があり、見学ツアーに参加することになる。4月の第2から10月末の各日曜日の10時から15時であれば、予約無しで1名からツアーに参加することができる。それ以外は、3日前までに予約が必要だ。参加料金は、高校生以上が1200円、小中学生は600円だ。
写真:阿部 吾郎
地図を見るツアーで巡るのは坑道のほんの一部とはいえ、所要時間60分とかなり長いコースだ。それだけに見どころも多くたっぷり楽しめる。
観光化された施設では、コースをコンクリートで固めたり、手すりを付けたりといった工事がなされていることが多いが、明延鉱山跡は、ほぼ当時のままの状態が保たれている。
明延鉱山の歴史は古い。奈良時代の大仏鋳造に明延の銅が使用されたという記録がある。戦国時代は織田や豊臣の支配を受け、江戸時代には、幕府代官所の所管となった。明治時代に官営となったが、のちに三菱に払い下げられた。明治42年(1909年)に錫鉱が発見され、銅、亜鉛、錫など多鉱種を産出する国内有数の鉱山として発展し、日本の近代化を支えた。昭和62年、世界的に金属の値段が下がったため採算が取れなくなり、地下に多くの資源を残しながら閉山を余儀なくされた。
写真:阿部 吾郎
地図を見る坑道内には、鉱物を運搬するための小型の機関車が走ったレールが当時のまま残っている。
写真:阿部 吾郎
地図を見る深さ1000mの構内は重層構造になっている。このため見学コースの中にも階段がある。平坦なコースではなく、立体的に坑内を見て回れるのが、この探検坑道の魅力のひとつだ。
写真:阿部 吾郎
地図を見るそして、こちらは立坑に設置されたエレベーターだ。レベル-1から-14まで昇降する明延鉱山の大動脈である。こういった設備も、当時のままの状態で残されている。
写真:阿部 吾郎
地図を見る見学コース最大の見どころ、巨大鉱脈跡。坑道の上に20mの空洞ができている。これは質の良い鉱脈を採掘した後にできたものだ。
写真:阿部 吾郎
地図を見る明延鉱山探検坑道内には、当時使われていた様々な機械が展示されている。上の写真は、鉱物の運搬に使われた蓄電池式の機関車だ。無線操縦も可能で、一人で2台を同時に運転できた。
写真:阿部 吾郎
地図を見る掘削機械も、様々な種類のものが見られる。写真は、オフセットストーパという、上に向かって掘削する際に使われた機械。
写真:阿部 吾郎
地図を見る坑道内に酒蔵がある。坑道内は、気温の変化が緩やかで、光が入らず、適度な湿気があり、長期醸造酒を熟成させるための条件が揃っており、豊潤でまろやかな清酒ができあがるという。
写真:阿部 吾郎
地図を見る「神子畑(みこばた)選鉱場跡」は、明延鉱山がある養父市のお隣、朝来市にある。巨大な階段状の遺構で、予備知識なしでこれを見たら、何のために造られたものなのか想像もつかない。一部の廃墟マニアの間では、以前から人気が高く、遠方から見学に来る人も多いという。
選鉱場とは、採掘された鉱石から鉱物を取り出すための施設だ。上の方から順番に作業を行い下におろしていく。
神子畑選鉱場は、大正8年(1919年)に竣工し、幾度かの拡張を経て「東洋一」と言われるまでに発展した。最盛期には、1300人の人々が神子畑地区で生活していたが、明延鉱山の閉山に伴い閉鎖された。
写真:阿部 吾郎
地図を見る神子畑選鉱場跡には、下から真っ直ぐに伸びていくレールが残されている。これは、資材や人を各作業場に運ぶために使われた、インクラインと呼ばれるケーブルカーが走っていたレールだ。
ここまで読まれた方は既にお気づきのことと思われるが、明延鉱山で採掘された鉱物を、この神子畑選鉱場に運び選鉱作業を行っていたのだ。インクラインのレールを見ると、施設の下まで鉱物を運び、インクラインで一番上まで上げて順に選鉱作業を行いながら下におろして行ったと推測されるかもしれない。しかし、これは不正解だ。
当時は、明延鉱山と神子畑選鉱場は鉄道で結ばれており、トンネルを通って施設の最上部に列車が到着するようになっていたのだ。
写真:阿部 吾郎
地図を見る神子畑選鉱場の一番下に、円盤状の設備が残っている。これは「シックナー」という設備で、どろどろの液体状になった鉱石から遠心力を使って鉱物を分離回収するために使われた。ロートのような形をしており、スライム状の不純物が下に排出されるようになっている。この不純物から水分を抜いてできた土は坑道の足場などに再利用された。
写真:阿部 吾郎
地図を見る先ほどご紹介した、明延鉱山と神子畑選鉱場の間を走っていた列車がこの一円電車だ。鉱物を運ぶ貨車だけでなく、人を運ぶ客車も連結されていた。遊園地の電車のようだが、これは当時使われていた実物である。客車は従業員の通勤や家族の交通の便を図るために導入され、当時の運賃が1円であったことから、この名前がある。
写真は、神子畑選鉱場跡に展示されているものだが、明延鉱山の近くに、一円電車に乗車できる施設がある。
写真:阿部 吾郎
地図を見る神子畑選鉱場跡のすぐ下にある「ムーセ旧居」。ムーセは、生野鉱山で働いたフランス人地質学者だ。ムーセ旧居は1872年に生野鉱山の外国人宿舎として建てられ、ムーセがここに暮らしていた。1888年に、この建物は神子畑に移築され、事務所、診療所として利用された。
明治初期の建築文化を語る貴重な建物として保存されている。
写真:阿部 吾郎
地図を見る内部には、神子畑選鉱場の歴史に関する展示がある。選鉱場の模型や当時の写真を見ると、今では廃墟となっている施設がどのように使われていたのかを知ることができ、当時の活気に満ちた現場の様子を想像することができる。
明延鉱山と神子畑選鉱場、日本の近代化に大いに貢献した2つの施設をご紹介したが、いかがだっただろうか。単に観光するだけでなく、様々な事は学ぶことができるスポットでもある。
朝来市には「生野鉱山」という有名な鉱山があり、こちらも既に閉山しているが見学コースがある。
明延−神子畑−生野を結ぶルートは、近代化産業遺産エリア「鉱石の道」としてプロモーションが行われている。ここでご紹介したもの以外にも、様々な関連遺産が残されている。鉱山・鉱石と、一見地味なテーマではあるが、触れてみると奥の深い、興味深い世界だ。現在の日本の礎を築いた、まさにその現場を目の当たりにする旅に、是非出かけていただきたい。
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(2024/11/5更新)
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