火事からの復活!大磯「旧吉田茂邸」で戦後を代表する総理大臣の足跡を体感

火事からの復活!大磯「旧吉田茂邸」で戦後を代表する総理大臣の足跡を体感

更新日:2017/09/15 11:06

M Maririnのプロフィール写真 M Maririn 神社仏閣巡り人、50代からの女子旅愛好家
神奈川県大磯町にある「旧吉田茂邸」の一般公開が2017年(平成29年)4月より始まりました。戦後5回も総理大臣を務めた吉田茂が暮らした館は、2009年(平成21年)3月火事により母屋が全焼するという不幸に見舞われながらも、地元の大磯町や神奈川県によって一部を除き焼失前の形に大磯町郷土資料館別館として再建。戦後日本の復興に力を尽くした吉田茂の足跡をたどれるこの場所は、政治ファンならずとも必見です!

大磯に立つ偉大な総理大臣の館

大磯に立つ偉大な総理大臣の館

写真:M Maririn

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戦後通算5期にわたり日本の総理大臣を務め、サンフランシスコ講和条約や日米安全保障条約を締結し戦後日本の復興の道筋を作った吉田茂(1878−1967)。風光明媚で多くの政財界人や文士などの別荘地であった大磯に吉田茂の養父・吉田健三が建てた別荘を、1945年(昭和20年)から自宅として増改築をしながら晩年まで過ごしました。政界を引退した後も政財界の要人など多くの人々が大磯の吉田茂のもとに訪れたため「大磯詣(おおいそもうで)」という言葉が生まれたほどです。

大磯に立つ偉大な総理大臣の館

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2009年(平成21年)3月22日、原因不明の火事により母屋部分が焼失するという大きな不運に見舞われてしまいましたが、大磯町と神奈川県により邸宅を再建。2017年(平成29年)4月から晴れて一般公開を開始しました。旧吉田茂邸と庭園部分一帯も含めて「神奈川県立大磯城山公園・旧吉田茂邸地区」として整備され、現代の大磯詣を楽しむことができます。

再建された元首相の邸宅

再建された元首相の邸宅

写真:M Maririn

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旧吉田茂邸の玄関を入ってまず右に進むと応接間棟があります。この建物は吉田茂が総理大臣だった昭和22年頃に京都祇園の歌舞練場などを設計した建築家・木村得三郎が増改築を手掛けたものです。

1階は「楓の間」と呼ばれていた応接間で、吉田茂が客人と談話するために使っていました。また吉田茂没後、1979年(昭和54年)に大平正芳首相とアメリカのカーター大統領が首脳会談を行なった歴史的場所でもあります。2009年(平成21年)の火事で吉田茂邸の家具なども焼失してしまいましたが、再建にあたり調度品や壁紙などは写真などをもとにして再現されました。

この部屋の飾り棚にはかろうじて焼け残った虎の置物や吉田茂の孫にあたる麻生太郎氏から寄贈された置時計などが展示されています。

再建された元首相の邸宅

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二階の書斎は限られた身内以外は吉田茂の許可なく入ることができなかった私的な場所でした。写真右下にある電話は官邸直通のダイヤルのない黒電話(複製を展示)。吉田は普段はガラス棚の下の地袋に入れておいたようです。ガラス棚に飾られている本は吉田茂自身のもので、大磯町立図書館に寄贈されていたものを展示しています。

再建された元首相の邸宅

写真:M Maririn

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建物の北側には浴室がありますが、ここには大磯の船大工が製作にかかわったといわれている珍しい舟形の浴槽があります。

モダンと古典が融合した近代数寄屋建築の新館

モダンと古典が融合した近代数寄屋建築の新館

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応接間棟の二階から降りて展示・休憩室を通り抜けて建物の反対側に進むと新館があります。吉田茂はかねてから自宅を海外からの賓客を迎えるための迎賓館とする思いを持っており、昭和30年代に増改築を行いました。設計したのは五島美術館や日本芸術院会館などを手掛けた建築家・吉田五十八(よしだいそや)。近代的な素材やデザインと伝統的な数寄屋造りを融合させた近代数寄屋造りという建築様式がもちいられ、すっきりとした直線的な建物の外観や部屋を広く見せるために柱を隠す大壁造りという手法などが施されています。

モダンと古典が融合した近代数寄屋建築の新館

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アールデコ調のローズルームと呼ばれる食堂。ヨーロッパ的な照明や日本の木造建築が溶け合った室内空間です。この部屋の特徴的な壁を覆うレザーは、建設当初は子羊の皮が使われていたそう。吉田茂はしばしば、新しく赴任した外交官補を家に招待しこの食堂でもてなすこともあったそうです。

モダンと古典が融合した近代数寄屋建築の新館

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玄関ホールと中庭も吉田五十八により設計されたものです。大判のガラスで仕切られた中庭(光庭・こうてい)から光が入り、明るい開放的な雰囲気を感じられます。

応接棟と新館の間にある展示・休憩室には吉田茂をイメージしたオブジェが飾られています。一つは吉田のトレードマークの一つである白足袋のオブジェ。もう一つは、1953年(昭和28年)の衆議院解散のきっかけの一因とも言われているあの有名な言葉をモチーフにしたもの。素通りせずにご覧になってくださいね。

吉田茂が過ごした金と銀の部屋

吉田茂が過ごした金と銀の部屋

写真:M Maririn

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新館二階には金の間・銀の間と呼ばれる二つの部屋があります。名前の由来はそれぞれ金と銀の装飾で統一されていること(銀の間は現在は錫を使用)。どちらの部屋も四隅の隅柱(すみばしら)が見えず空間を広く見せています。金の間は賓客をもてなす応接間。海外の首相や皇族の方々がお見えになったそうです。窓から太平洋や箱根さらに富士山を望める眺望の素晴らしい部屋です。吉田茂は毎日のようにこの部屋から富士山を見ていたそうですが、吉田でなくとも思わず足を長く止めてしまうほど、潮風香るのびやかな景色を楽しむことができます。

吉田茂が過ごした金と銀の部屋

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生前、吉田茂はこの家を訪れる人たちが「海も山も眺められて結構な住まいだ」と褒めてくれることと、来訪者が海千山千の人たちばかりであるので、この館を「海千山千荘」と呼んでいたそうです。

吉田茂が過ごした金と銀の部屋

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銀の間は寝室兼書斎として使っていたところ。金の間に比べやや落ち着いた雰囲気のこの部屋は、吉田茂が最後の時をむかえたところです。再現された場所とはいえ、戦後の日本の復興に力を尽くした政治家が生涯を終えたところかと思うと厳粛な気持ちになります。

吉田茂の愛した日本庭園とバラ園

吉田茂の愛した日本庭園とバラ園

写真:M Maririn

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吉田茂邸の前に広がる庭は、玉堂美術館などを手掛けた世界的造園家の中島健が設計した池泉回遊式の庭園です。建物の前に心字池が配置され、梅や紅葉、菖蒲、藤などの季節の花木が散策者を楽しませてくれます。日本庭園には珍しい大きなカナリーヤシが植えられていますが、この木は当時の神奈川県議会議長が吉田茂に送ったもので中島健の指示で植えられたと言われています。

吉田茂の愛した日本庭園とバラ園

写真:M Maririn

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吉田茂邸の建物は焼失してしまいましたが、庭園内には火事を免れた貴重な建築物が残っています。写真の檜皮葺の「内門」もその一つで、サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられたことから別名「講和条約門」または軒先に曲線状の切り欠きがあり兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれています。

そのほかにも1903年(明治36年)に伊藤博文が建て、のちに吉田茂邸に移築された岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允・伊藤博文・西園寺公望・吉田茂の7人を祀った「七賢堂」と呼ばれる祠や、本邸の離れのような形で庭の池に張り出すように立っている曲面ガラス張りの「サンルーム」が火事の前からの姿を保っています。

吉田茂の愛した日本庭園とバラ園

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庭が作られたころとほぼ同時期に現在の駐車場の敷地にバラ園が作られました。花好きだった吉田茂、特にバラの花への愛情は深く自慢のバラ園だったそうです。バラ園は吉田茂邸で1979年(昭和54年)に行われたカーター大統領・大平首相会談の折に駐車場化されたことから縮小しましたが、吉田茂が存命中に植えられていたバラの品種を植えてあります。その中でも「プリンセスミチコ」というバラはイギリスのバラの育種会社が育てアメリカを通じて当時の美智子皇太子妃にささげられたバラで、吉田茂邸のバラ園で栽培され全国に広まったと言われています。

最後に

「神奈川県立大磯城山公園」には、旧吉田茂邸の立つ「旧吉田茂邸地区」と、隣接して三井財閥の別荘跡地を整備した「旧三井別邸地区」とがあります。当時の面影をほのかに感じる園内には相模湾を望む展望台や秋の美しい紅葉などを楽しめますのであわせてご覧になってください。
「神奈川県立大磯城山公園」へは、JR大磯駅から「国府津駅行・二宮駅行・湘南大磯住宅行」バスに乗り、城山公園前下車徒歩5分です。年末年始以外は無休ですが、旧吉田茂邸の建物部分は月曜と月初めの1日が原則休館です。旧吉田茂邸入館時には観覧料500円(一般)が必要となります。詳しくは関連メモのHPをご覧ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/07/06 訪問

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