美しくも重厚な備前焼を利用した屋根瓦。旧閑谷学校の校門は、「学問の殿堂」と呼ばれるのにふさわしい見事な作りをしているのです。
作られたのは貞享3年(1686年)であり、300年以上昔のこと。校門は鶴鳴門とも呼ばれていますが、これは中国の古典詩集である「詩経」から来ています。校門から石塀に沿って右に進むと、受付があり内部に入ることが出来ます。
受付を入り、正面の岡の上に見えるのが「閑谷神社」です。明治8年(1875年)に閑谷神社と改称されていますが、その前は東御堂、あるいは芳烈祠と呼ばれていました。
祭神は備前岡山藩初代藩主・池田光政(慶長14年(1609年)−天和2年(1682年))です。瓦屋根の落ち着いた作りから、神社にふさわしい風格を感じることが出来るでしょう。
隣接する建物は孔子を祀る聖廟ですが、二つの建物の前に見えるのは二本の楷の木。「学問の木」と呼ばれ親しまれてきました。季節ごとに色を変える美しさ。多くの学生がこの木を見上げ、そして学問に励んだことでしょう。
閑谷学校とは一般庶民を対象とした世界最古の公立校であり、その創建は岡山藩主・池田光政となっています。時代は江戸時代。藩主が寛文6年(1666年)に閑谷の地にて、学問をするのにふさわしい場所と言ったことが発端です。
その後、寛文10年(1670年)に整備が開始されます。それから32年の長きに渡り、藩主亡き後も整備が続けられました。なぜ、藩主没後も継続したのでしょうか。それは藩主の遺言で、学問所を永続させるようにとの言葉があったから。
ところで池田光政は学問好きで知られていました。幼少期から非凡であり、晩年の徳川家康からもその才能を認められたと言われています。
長年の難事業と言える歴史。その偉業を成し遂げたのがこの閑谷に転居して来てまで工事を継続した家臣の津田永忠(寛永17年(1640年)−宝永4年(1707年))です。
津田永忠は、岡山城下の旭川の氾濫対策として放水路を築くことや新田開発に尽力するなど、藩の中でも特に土木工事の優れた技術を持っていました。このことが藩主からの絶大な信頼となっており、閑谷学校の建築に関わることになったのです。
30年以上の長い苦労は、相当なものがあったことでしょう。閑谷学校が美しければ美しいほど、それはち密な計算と努力の証拠と言えるのでは。
講堂は「国宝」なっていますが、今も使われています。今日も学生の素読が行われ、生徒たちによって床は磨かれているのです。素読だけではなく国宝を掃除する経験も、長く心に残されていくのではないでしょうか。
講堂の作りは入母屋造り。屋根は当初、茅茸でしたが備前焼瓦に変更され、その後は壊れることなく使われ続けています。
講堂を囲んで廊下は回廊となっています。一歩一歩、雰囲気を楽しんで歩いてみましょう。なお、観光では講堂の中に入ることは出来ませんのでご注意を。
重要文化財の文庫(ぶんこ)を右手に見ながら、石塀に沿って歩くことが出来ます。これもまた重要文化財の火除山(ひよけやま)と石塀の間の小道は、とても美しく感じられることでしょう。ちなみに文庫とは閑谷学校の教科書や参考書を収納した場所。火除山は万が一の火災の際の防火として作られた小山です。
石塀の長さは全長765mあり、石を切り込む工法「切り込み接ぎ式」で作られ、かまぼこ型の独特の姿をしています。約300年間、威風堂々とその姿を残し続けているのです。
小道の先には寄宿舎跡があり様々な展示品があります。他にも見どころがあり、閑谷学校ではぜひとも長めの時間を確保して、じっくりと観光して欲しいものです。貴重な国宝を含む日本遺産で、時代の流れを感じてみて下さい。
住所:備前市閑谷784
電話番号:0869-67-1436
アクセス:JR山陽本線吉永駅で下車。市営バス約15分
2018年6月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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