日本史に登場する偉人の墓所ひしめく町〜大阪・太子町〜

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日本史に登場する偉人の墓所ひしめく町〜大阪・太子町〜

日本史に登場する偉人の墓所ひしめく町〜大阪・太子町〜

更新日:2017/08/29 19:03

小谷 結城のプロフィール写真 小谷 結城 国内旅行業務取扱管理者、京都検定2級、温泉ソムリエ、日本城郭検定2級、国内旅行地理検定2級

大阪府南東部。『万葉集』の歌枕として知られる二上山を東に控える太子町は古代の御陵や古墳が数多く残り、“河内飛鳥”とも称されるほどです。また、二上山の南を通って町を東西に貫く竹内街道は、難波と飛鳥を結ぶルートを構成する最重要な街道の一つで“日本最古の官道”として知られており、このことから河内側の玄関口にあたる太子町が要衝地であったことも窺えます。今回は、そんな太子町の墓所を探訪したいと思います。

源氏の台頭はここから始まりました「源義家墓」

源氏の台頭はここから始まりました「源義家墓」

写真:小谷 結城

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近鉄「上ノ太子」駅から南西へ。丘陵地の先にまず源義家の墓があります。義家といえば、永保3(1083)年に起きた後三年の役で知られる人物です。坂上田村麻呂に敗退して以来、再起を目指して奥州で力を蓄えてきた豪族・清原氏が内部分裂を起こし、2派の武力の均衡を図るべく陸奥国守として軍事介入したのが義家でした。

戦役後、関東から出征してきた武士たちに私財で恩賞を施し、これが東国での源氏の地盤固めとなって、のちの鎌倉幕府に繋がったとされています。ちなみに、平家を攻め滅ぼし、鎌倉幕府を開幕したことで知られる義経・頼朝は、義家の玄孫に当たります。

現在は小高い山の上に円形の塚が残ります。すぐ近くには、義家の父・頼義、祖父・頼信の墓もあり、この地が本拠地でした。すなわち河内源氏発祥の地であり、ひいては武士台頭の礎の地なのです。しかし、厳密に言えば太子町内ではなくぎりぎり羽曳野市内となります。ですが、どうぞ目を瞑って下さい。

やはり偉大な遣隋使?「小野妹子墓」

やはり偉大な遣隋使?「小野妹子墓」

写真:小谷 結城

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源義家墓からすぐ南に竹内街道が走ります。この竹内街道の東方、金剛山地のすぐ麓に小野妹子の墓があります。源義家が活躍した頃からさらに遡ること約500年。推古15(607)年、遣隋使として隋に渡り、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」という有名な文句の記された国書を煬帝に提出したことで知られる人物です。

歴史の教科書にも登場し誰もが知っている人物ではありますが、彼が遣隋使に抜擢されたいきさつも、帰国後の彼のことも未だ不明です。生没年も分かっていません。しかし、出身は近江とされています。謎は多い人物ですが、近江出身の官人がこの地に眠っているということは、少なくとも彼が大和朝廷で確かに偉大な功績を残した人物であったことと、現在の太子町域が重要な場所であったことを示す証左にはなろうかと思います。

日本最初の女帝が眠る「推古天皇陵」

日本最初の女帝が眠る「推古天皇陵」

写真:小谷 結城

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小野妹子ら遣隋使が派遣されたのは、推古15(607)年。すなわち、第33代・推古天皇の時代です。推古天皇は日本で最初の女性天皇であり、甥の聖徳太子を摂政にして大和朝廷の体制改革を行わせたことであまりに有名です。そんな彼女の御陵は小野妹子墓から西へ1キロ弱の距離にあり、近づくと緩やかな段々状の田園の中にこんもりと茂った森が現れます。

日本最初の女帝が眠る「推古天皇陵」

写真:小谷 結城

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遥拝所まで近づいてみると、大きな空堀をめぐらせた方墳になっていることが分かります。国体である天皇の御陵とはいえ、1400年も昔の人物に手を合わせられることに感慨を覚えます。

また、竹内街道の周辺には、この他にも第30代・敏達(びたつ)、第31代・用明、第36代・孝徳天皇の3陵があり、これに推古天皇陵と聖徳太子廟を合わせ、梅の花びらになぞらえて梅鉢御陵と称されます。

町名の由来「叡福寺・聖徳太子廟」

町名の由来「叡福寺・聖徳太子廟」

写真:小谷 結城

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推古天皇陵から北西へ約1キロ。推古天皇陵と源義家墓とのちょうど中間の位置にあるのが、最後にご紹介する叡福寺です。この寺院は、推古30(622)年に亡くなった聖徳太子の陵墓を守護する目的でその年に一堂が構えられ、神亀元(724)年に聖武天皇の勅願で伽藍が造営された寺院になります。

現在の伽藍は、天正2(1574)年に織田信長の兵火で焼失した後に豊臣秀頼らによって順次再建されたものです。写真は、承応元(1652)年に再建された多宝塔になります。初層は三手先の組物に蛇腹支輪、並行垂木を用いて方形の構造物をわりあい直線的に支えていますが、2層目は高欄を円形にめぐらせ、台輪・頭貫・桁を円形にカーブさせて四手先の組物を配置。垂木も放射状の扇垂木にして円形を強く意識したものに変えています。初層と2層目で技巧を変えながらもともに凝ったものにしている点は見ものです。

町名の由来「叡福寺・聖徳太子廟」

写真:小谷 結城

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境内の北には、叡福寺が叡福寺たる所以である聖徳太子の廟があります。国内の豪族が強力な力を持つようになり、朝鮮半島も勢力争いによる不安定な情勢で危機感を持った大和朝廷は国家体制の再編を図ります。この頃が推古天皇の治世であり、推古天皇の摂政として冠位十二階、十七条憲法の制定等の政策を実際に主導した人物が聖徳太子です。

墳形は円墳になっており、母君と妃の棺も納められていると言われ三骨一廟の名もあります。廟は手前から唐破風、切妻破風、切妻破風を持つ3つの建物が縦に並ぶ珍しい構造をしています。円墳の周りには、玉垣のように結界石が二重に並び、侵入を阻みます。特殊な形態の廟ですが、特別な人物が葬られていることだけは容易に察せられる、独特な空間です。

太子町の名前は、まさしくこの聖徳太子廟に由来します。古代の優れた政治家の名が自治体名として今も残っていることに、改めて聖徳太子の偉大さを感じざるを得ません。

素朴な町で古代ロマンに想いを馳せる旅を

源義家、小野妹子、推古天皇、聖徳太子…。日本史の教科書に登場する名だたる人物がこの田舎町に眠っています。山が迫り、古い家々の間を田園が埋める、観光地化もあまり進んでいない素朴な町ですが、だからこそこうした史跡に真実味が出てくるのかもしれません。しっとりと古代ロマンに想いを馳せる太子町の旅、いかがでしょうか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/07/18 訪問

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