讃岐(香川県)の高松城と区別するため、備中高松城と呼ばれることがある高松城の築城の具体的な日付ははっきりしていません。それでも築城の時代は戦国期と言われ、石川氏の手によるとされています。
城は湿地という地形を巧みに利用して作られ、沼城とも呼ばれた石垣を使わない構造でした。
高松城址公園はその雰囲気を伝えるように、池を中心とした水のある庭園として整備されているので、散策をしてもとても美しい場所です。
その後、羽柴秀吉と戦うことになる清水宗治(天文6年(1537年)−天正10年6月4日(1582年))が城主となっています。なお、清水宗治がもとより城主であったという説もあります。清水は現在の岡山県総社市の生まれ。
天正10年4月、織田信長から中国地方攻略を命ぜられた羽柴秀吉は、高松城攻略に取り掛かりました。しかしながら城の周囲は湿地帯となっており、強行戦を行うも足場が悪く、秀吉軍は大苦戦を強いられ長期化の様相となります。
公園内は5月になると菖蒲が咲き誇り、戦国の命を懸けた戦いが行われたとは信じられない感じがするのでは。
攻めあぐねている秀吉軍。そこに秀吉の大軍師である黒田孝高(官兵衛、如水)が、周囲は山脈で囲まれており、更には湿地帯という状況を逆利用し、土塁を築くことで城を水没させる案を進言。すぐに実行されたのです。
水攻めの最中に、羽柴秀吉は主君の織田信長が本能寺で倒れたことを意外な形で知ります。それは清水宗治の主家である毛利家に向かっていた密偵を捕え、密書を読んだからでした。
これは早急に戻り明智光秀を討たねばなりません。密偵を捕らえたのですから毛利、清水側には本能寺の変は伝わっていないはず。知られる前に早期決着を目指したい秀吉は戦の終結条件を提案するのです。
やがて城主の清水宗治は、籠城も限界と判断。一定の条件により自刃。高松城本丸跡付近には清水宗治の首塚があります。なお、清水の首は当初、秀吉が陣を張った場所近くに埋められましたが、明治になって有志により本丸付近に埋葬されたと伝えられています。
ところで高松城は落城後に廃棄されることは無く改修が続けられ、関ヶ原の戦い(1600年)以降は徳川家旗本が陣屋を構えて利用した経緯もあるのです。
高松城水攻めの全体像を知るためには、本丸近くの高松城址公園資料館に入ってみましょう。周辺の様子も詳しく説明されています。
<基本情報>
住所:岡山県岡山市北区高松
電話:086-287-5554
アクセス:備中高松駅から徒歩約15分
備中高松城水攻めの最中であった羽柴秀吉は一刻も早く戻るため、清水宗治に対し既に出していた土地の割譲を5か所から3か所に減少させ緩和。同時に城主宗治の命を差し出せば、主家である毛利家と城兵約5千人を助けるとしました。
水攻めが開始されてから約半月。周囲は水没状態が続いており、城の中は食料不足で困窮状態。藩主自らが条件の受け入れを決断したのです。
当時の高松城ニノ丸跡、現在は玄妙寺がある場所に浮かべた船上で城主・清水宗治は切腹をします。この様子が武士の鑑とされ、後の切腹の作法となったとまで言われることになるのです。
清水宗治自刃は6月4日。その夕刻に毛利家は信長が本能寺で没したという報を受けたのです。毛利家では再戦の声が出ますが、既に清水宗治は自刃していることから実行されることはありませんでした。
玄妙寺は高松城跡からとても近く。分かりやすい標識もありますので、ぜひとも足を運んでみましょう。
清水宗治自刃の地からすぐ近くの「ごうやぶ遺跡」と呼ばれる場所。城主の後を追って互いに刺し違えて殉死した家臣の遺構であり、こちらにも足を運んでみて下さい。
<基本情報>
アクセス:高松城跡から徒歩約3分
土塁跡は遺構として現在も残されています。羽柴秀吉が陣を張った石井山登山口近くに蛙ケ鼻という場所が「高松城水攻め史跡公園」となっており、当時の様子を知ることが出来ます。
土塁は全長約3kmで高さは8m、底部は24mで上幅は12mあったと言われ、しかもこれだけの規模を10日強で仕上げました。なぜこれだけ短期間で作ることが出来たのかは、破格の報酬で人を雇ったことによります。そして5月中旬に完成したのです。
<基本情報>
住所:岡山市北区立田
なお、水は足守川から取り入れていますが、その取水口とされる場所も残されています。少し距離はありますが、興味がある方は行ってみましょう。水攻め当時は雨季であったこともあり、高松城はあっという間に水に浮かぶ城となったと伝えられています。
<基本情報>
アクセス:足守駅徒歩約5分
蛙ケ鼻の高松城寄りの場所に最上稲荷の大鳥居があり、そこから山方向に歩いて5分程で、石井山登山口を見つけることが出来ます。そこから緩やかな山道を10分程登っていくと看板があり、清水宗治の首を埋葬したという首塚に到着。
そのすぐ左に進むと羽柴秀吉が陣を張り、清水宗治が船上で舞を舞った後に自刃した場所を見下せる「秀吉公本陣跡」に出ることが出来ます。
織田信長亡き後、短期決戦とせねばならなかった羽柴秀吉は、どういう気持ちでこの場所から見下ろしていたのでしょうか。また、清水宗治の思いは如何に・・・。
本能寺の変の情報が先に清水宗治側に伝わったならば、高松城では苦しくても更なる籠城を決断していたかも知れません。そして羽柴秀吉の城攻略に時間がかかったならば、織田信長の次の時代はどうなっていたのでしょう。
戦国時代における日本の大きな分岐点だった高松城の水攻め。歴史上重要な意味を持つこの場所に、足を運んでみましょう。
なお、近くには秀吉が戦勝祈願をした桃太郎の「吉備津彦神社」と、約2kmの距離で国宝の社殿「吉備津神社」があります。詳細は関連MEMOをご確認下さい。
2018年9月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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