京浜急行線「神奈川駅」から徒歩10分ほどの場所に「大綱金比羅神社」はあります。通称、「横浜のこんぴらさん」として地域の人々に親しまれ、周辺は鬱蒼とした杜となっています。JR横浜駅前ターミナルを中心に街が発展しているにも関わらず、わずか10分程度で景色が様変わりする道のりは少し驚いてしまいます。
金比羅の入口は赤い鳥居が目印となります。鳥居の奥には長く階段が続き、青いのぼり旗が目を引きます。旧社は東海道の旧神奈川宿にあった「下台町」の鎮守でした。元々は現在の台町付近にあった小高い山の頂に「大綱神社(飯綱権現)」があり、中腹に「金刀比羅神社(金刀比羅権現)」が鎮座している状態でした。しかし、山が崩落してしまった為、明治時代に両社が合祀され、現在の「大綱金刀比羅神社」となりました。
鳥居の前を横切る道は旧東海道にあたり、「神奈川宿歴史の道」に指定されています。東は京浜急行「神奈川新町駅」近くの「神奈川通東公園」から、西はJR横浜駅西口近くの「上台橋」に至るおよそ4.3qの道のりです。
かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入する船乗り達からは深く崇拝され、「天狗伝説」の地としても知られています。江戸時代にはこの神社前の街道の両側に、一里塚が置かれていました。この塚は起点の「日本橋」から数えて七番目にあたり、土盛の上に樹が植えられた大きなものだったといいます。
現在も「横浜のこんぴらさん」として親しまれていますが、裏山の崩壊によって社殿が倒壊しまい、社殿はかつての神楽殿を利用した「仮殿」のままです。その後30年以上経ても新社殿は建造されることなく、現在に至っています。
本殿がないため、手水舎も社務所の前にひっそりと佇んでいます。本来あるべき本殿は、言い伝えによると、1185年から1189年頃にかけて源頼朝が創建したと伝わっています。1180年、頼朝は「石橋山の戦い」で敗北し逃亡を余儀なくされます。海路からの脱出を試み命からがら小舟に乗ったものの、波は荒れ、その行程は無謀ともいえるものでした。
しかし、「飯綱権現」の思召しにより暴風雨や荒波の難を逃れ、無事に安房国(今の千葉県)に辿り着く事ができたのです。後に征夷大将軍となり、この御恩を忘れなかった頼朝は、この地の山頂に社を建てました。このような経緯から地元の人々から「勝軍飯綱大権現」として崇め奉られています。
現社殿(仮社殿)は敷地の少し奥まった処に建っています。周りには草木が生い茂っているため、夕刻時に訪れると淡い明りが点々と灯り、より神聖な雰囲気を醸し出しています。
訪れる際に準備しておきたいのが、蚊・ブヨなどへの虫対策です。社殿の前にも蚊取り線香が置かれているほどその数は多く、刺され始めると一気に体中にまとわりついてきます。気持ちよく参拝する為にも、「虫よけスプレー」などを携帯し、肌の露出は極力避けたほうが良さそうです。
神社では御朱印をはじめ、絵馬やおみくじなどをいただくことができます。一緒に配布される冊子を読むと、大綱金刀比羅神社にまつわる詳しい資料や、神社の由緒・金比羅信仰の変遷など、特に「海上交通の守り神」として信仰されていたことが分かります。
旧本殿の鎮座していた場所です。社はないものの、注連縄によって周囲が守られています。最初の社殿が建立された後、1828年に社殿が造営されたという記録が残っています。また、1846年には「金刀比羅神社」の修繕が行われました。そこには「勝軍飯綱権現」の扁額(看板)があったことも併記されています。
「飯綱権現」だけでなく、山の中腹にあった末社の「金刀比羅権現」も人々から崇敬を集めており、江戸時代には「聖天金毘羅合社」として境内末社の扱いを受けていたようです。どちらも「修験道」と関わりが深く、天狗伝説も残る事から、江戸時代には既に両神社は切り離せないものだったのでしょう。
「龍神池」と奥に見えるのが弁天様を祀っている「弁財天」です。山腹からは小さな滝も流れ、優雅に鯉も泳いでいます。岩屋は1915年に造成されました。
弁天様へは踏み石を渡って、参拝することができます。しかし、足元が濡れていると滑りやすく池に落ちてしまう可能性もあるので、不安な方は対岸から参拝しましょう。繁茂した草木に覆われているなかで、弁天様の姿は一際目立つ存在です。
1989年に造営された三宝荒神社です。敷地内にひっそりと佇んでおり、一見すると神社だとは分かりません。「三宝荒」とは仏・法・僧を守る神様のことです。俗に不浄を嫌うことから火をつかさどる神として祀ります。
神仏習合によって生まれ、修験者と関わりが深いことから、この神社に勧請されました。また、御本尊は静岡県にある秋葉山本宮の「秋葉神社」から移されたものです。
「大天狗の像」の伝承は、香川県の「金刀比羅宮」へ江戸から奉納しようとしたことに端を発します。あるとき、天狗像を担いで使者が金刀比羅宮に向けて東海道を進んでいました。しかし、神奈川宿で一泊したところ、翌日には大天狗が岩のような重たさになり、担げなくなってしまったというのです。
使者はどうすることもできず、神奈川宿にもう一泊滞在することにしました。するとその晩、使者の夢に天狗様が現れ、「飯綱の神宮に留まりたいので、この地に私を置いていくように」とお告げがあったそうです。それを聞いた使者はそのまま大綱金刀比羅神社に奉納し、「大天狗の像」は飯綱権現に属する者として祀られるようになりました。
この神社の特徴は「飯綱権現」と「金刀比羅」いう、2つの神様が一緒に祀られていることです。山頂と山腹に当初は分けられていたとはいえ、山の神様と海の神様が同じ敷地内に存在しているのですから、初めて訪れる人は戸惑うことでしょう。
飯綱権現とは、通常「飯縄権現」と表記されることが多く、長野県の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰に由来します。「権現」(菩薩がこの世に姿を現すこと)なので、神仏習合の神として「天狗伝説」が今も語り継がれているのです。江戸時代には、顔の長さ四尺五寸(訳135p)の鼻高々とした大天狗が祀られていたそうです。
現在の横浜の地に「飯綱金刀比羅神社」を創建したのは源頼朝です。神奈川台町の鎮守であったとはいえ、海が近いこの地になぜ、当初「飯綱信仰」が根付いたのでしょうか?
そもそも、飯綱信仰=烏天狗は戦勝の神として信仰されていました。中世の武将たちの間では盛んに崇められ、頼朝もその一人だったのです。関東を地盤に勢力を保持していた武士達にとっては、なくてはならない存在だったのです。
明治時代になり合祀された後も、横浜の発展と頼朝の伝承は違和感なく受け入れられ、「金比羅信仰」は続きました。現状においては社殿の再建が望まれるところですが、それでも尚、多くの人々が参拝に訪れる神社であることから信仰の深さが伺えます。
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(2025/2/10更新)
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