大政奉還から150年!坂本龍馬ゆかりの地・京都「伏見」散策

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大政奉還から150年!坂本龍馬ゆかりの地・京都「伏見」散策

大政奉還から150年!坂本龍馬ゆかりの地・京都「伏見」散策

更新日:2017/09/12 10:40

モノホシ ダンのプロフィール写真 モノホシ ダン 総合旅行業務取扱管理者、総合旅程管理主任者

2017年は、江戸幕府の15代将軍「徳川慶喜」が朝廷に政権を返上した「大政奉還」から150年の節目にあたります。その大政奉還のもとになったのは坂本龍馬が考案したとされる「船中八策」。坂本龍馬は当時、薩摩藩の庇護下にあり京都・伏見の旅「寺田屋」を定宿としていました。のちに伏見奉行所の幕吏の襲撃を受けて命からがらに脱出した「寺田屋事件」の舞台となった、幕末の歴史と名酒のまち伏見を歩いてみませんか?

遊覧船「伏見・十石舟」に乗ってみよう!

遊覧船「伏見・十石舟」に乗ってみよう!

写真:モノホシ ダン

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伏見の町歩きの基点となるのが、京阪電鉄の京阪本線の中書島(ちゅうしょじま)駅。特急停車駅なのでとても便利です。ちなみに中書島という地名の由来は、賤ケ岳合戦の「賤ケ岳七本槍」のひとりである脇坂安治(わきさかやすはる)が、中務小輔の職にあったとき、宇治川の分流の島に屋敷を建てて住んだことによります。

中務小輔の唐名は「中書」であり、中書様の住んでいる屋敷の島ということで「中書島」と呼ばれるようになりました。水戸の中納言が唐名で「水戸黄門」と言われたのと同じような話ですね。

遊覧船「伏見・十石舟」に乗ってみよう!

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伏見にやってきたらぜひ乗ってみたいのが「十石舟」です。「十石舟」は、江戸時代に「三十石舟」とともに伏見からの米や酒の輸送や、旅客を大坂と行き来させるために、宇治川の分流と宇治川本流・淀川の間の輸送船として運航を開始。明治時代の末期まで存続しました。その後運航を再開した十石舟、2017年で運航再開20年を迎えました。船上から柳並木と蔵の歴史的風情を楽しみましょう。

遊覧船「伏見・十石舟」に乗ってみよう!

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伏見十石舟の船着場は長建寺の近くの弁天橋の下にあり、中書島駅から徒歩で約10分ほどです。コースは、弁天橋から宇治川の分流で伏見城の外堀でもあった濠川を三栖閘門(みすのこうもん)で折り返し弁天橋まで戻るもので、所要時間は約55分。乗船料は大人1200円です。

2017年の運航期間は3月25日〜12月3日までで、運航時間は10時から16時20分(1日16便)です。ただし11月27日以降は10時〜15時40分(1日14便)。基本的に月曜日は運休日です。詳しくは関連MEMOをご覧下さい。

「月桂冠大倉記念館」で伏見の酒造の歴史を知ろう

「月桂冠大倉記念館」で伏見の酒造の歴史を知ろう

写真:モノホシ ダン

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かつて「伏水」と書かれた伏見。古来から良質の水が豊富に湧き出る地で、その水から造られる酒はまろやかで、口当たりがよいとされてきました。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は隠居城として伏見城を築城。全国から職人や大工など大勢の人々が集まるようになり、消費される酒の増加とともに酒蔵も増加しました。伏見の酒造業者は江戸時代前期には80を超え、約1万5千石の醸造量を誇り、国内有数の酒の産地として栄えました。

伏見を代表する酒造「月桂冠」は、江戸時代の1637年(寛永14年)三代将軍徳川家光のときに初代の大倉治右衛門が開業しました。勝利と栄光のシンボル「月桂冠」が銘柄として誕生したのは1905年(明治35年)のことです。「月桂冠大倉記念館」は、1982年(昭和57年)に酒造用具の展示と伏見の酒造の歴史を紹介する資料館として開設されました。

「月桂冠大倉記念館」で伏見の酒造の歴史を知ろう

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月桂冠大倉記念館の中庭には記念撮影用のパネルがあります。写真の内蔵製造場ではいまも酒が造られています。

「月桂冠大倉記念館」で伏見の酒造の歴史を知ろう

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見学のあとは、お約束の「利き酒コーナー」が。ロビーで「レトロボトル吟醸酒」「玉の泉大吟醸」「プラムワイン」の3アイテムの利き酒が楽しめます。またお土産として300円の酒が貰えます。入館料は大人300円ですから入館料金と同額の酒が貰えてとてもトクした気分になれるでしょう。

坂本龍馬ゆかりの「寺田屋」

坂本龍馬ゆかりの「寺田屋」

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月桂冠大倉記念館から徒歩で約10分ほどのところにある、坂本龍馬ゆかりの旅籠「寺田屋」は、もとは三十石舟に乗る人々が利用した船宿です。宿のすぐ前に寺田屋浜という船着場があり、大坂八軒家(いまの天満橋付近)まで舟運で結ばれていました。当時の所要時間は上りが約1日、下りは約半日だったといわれています。

ちなみに寺田屋は幕末の1868年の鳥羽・伏見の戦いで焼失し、現在の建物は明治になって旧宅を模して建てられたものです。

坂本龍馬ゆかりの「寺田屋」

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寺田屋の内部には、坂本龍馬の絵や写真、手紙などが所狭しと展示されていて、龍馬ファンでなくてもその資料の豊富なことに驚かされます。

ところで、坂本龍馬の写真は全部で6種類あると言われています。そのうちいちばん有名なのが高知の桂浜の銅像のモデルにもなった立ち姿の写真です。これは上野彦馬という幕末から明治にかけて活躍した写真家のスタジオで撮影されたものです。

立ち姿で右手を懐に入れているスタイルのもので、なぜ右手を懐に入れているかは諸説あります。一つ目は、1866年(慶応2年)寺田屋で伏見奉行所の幕吏に襲われたときに抵抗した際に負傷した右手の傷を隠すため、二つ目は、愛用の懐中時計を握り締めている様子を撮影したものなどです。

とくに幕吏の襲撃の際に受けた傷は重傷で、命からがら逃げた龍馬は妻の「お龍」をともない、三十石舟に乗って淀川を下り、遠く薩摩の霧島温泉へ療養のため湯治に出かけました。これが日本で最初の新婚旅行とされています。

坂本龍馬ゆかりの「寺田屋」

写真:モノホシ ダン

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坂本龍馬は、薩長同盟の締結や大政奉還の提言など明治維新に重要な役割を果たしたことはよく知られています。写真は寺田屋の2階の龍馬の部屋。龍馬は身長約180cmの大男で、北辰一刀流の達人でした。ただ寺田屋襲撃事件で手に重傷を負ってから、はまともに剣を握れなくなったとも言われています。

寺田屋の女主人「お登勢」とは

寺田屋の女主人「お登勢」とは

写真:モノホシ ダン

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寺田屋の隣の庭には、高知の桂浜の龍馬像のミニ版とも呼べる龍馬の銅像が立っています。その後ろの碑は「薩摩九烈士碑」です。1862年(文久2年)に倒幕の挙兵を決行しようとした薩摩藩の急進派と、時期尚早とする薩摩藩主「島津久光」が派遣した鎮撫使が寺田屋で激突し、亡くなった急進派9名を追慕するために建てられたものです。倒幕に向けて一枚岩のように見えた薩摩にも、権力闘争があったことが伺えます。

寺田屋の女主人「お登勢」とは

写真:モノホシ ダン

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坂本龍馬が寺田屋で襲われたときに、いち早く気がついたのが妻の「お龍」です。入浴中に迫る幕吏たちを見つけたお龍は、気丈にも素っ裸で風呂から飛び出し2階の龍馬に急報しました。写真は再現された風呂場です。

寺田屋の女主人「お登勢」とは

写真:モノホシ ダン

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坂本龍馬ほか多くの志士たちを助けたのが、当時の寺田屋の女主人の「お登勢」でした。たいへん義侠心に富んだ人物で、幕府から目を付けられていた志士たちを匿ったため自身も投獄されそうになったほとだったと言われています。写真は、その「お登勢」の部屋です。

伏見を歩いて幕末と名酒の町の雰囲気を楽しもう

いかがでしたか。幕末の風雲児「坂本龍馬」は、大政奉還成立の約1ケ月後の1867年12月10日に京都の近江屋で暗殺されてしまいます。享年31歳の若さでした。歴史に「IF」は禁物ですが、もし龍馬が暗殺されずに明治維新を迎えていたらどのような活躍をしたであろうかと考えるのは、知的遊戯としてとても楽しいことです。

おそらく龍馬の性格からして役職などにはつかず、たぶん海援隊をさらに発展させた総合貿易商社のようなものを目指したかも知れません。没後150年たった現在でも、龍馬が多くのファンに慕われているのは、そんな人間的な器の大きさからでしょう。龍馬も乗った十石舟と嗜んだ名酒をたずねて、伏見の町並みを散策してみませんか?

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/05/10−2017/08/26 訪問

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