刀痕と弾痕が幕末の事件を語る!東京・高輪「東禅寺」

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刀痕と弾痕が幕末の事件を語る!東京・高輪「東禅寺」

刀痕と弾痕が幕末の事件を語る!東京・高輪「東禅寺」

更新日:2017/09/21 16:45

井伊 たびをのプロフィール写真 井伊 たびを 社寺ナビゲーター、狛犬愛好家

幕末期「東禅寺」に、最初の英国公使館が置かれた。そこで、神聖なお寺に異邦人を居住させたことに対し、抗議する攘夷派浪士たちによる“襲撃事件”が二度も起こった。庫裏入口の軒屋根を支える柱に、今なお残っている“刀痕や弾痕“が、その戦いの凄まじさを、観る人に語りかけてくる。各国公使館に当てられた寺院は多くあったが、その多くは改変されている。ところが当寺は、ほぼ昔のままなので、「国指定史跡」に選ばれている。

「東禅寺」は、「最初のイギリス公使宿館」だった。

「東禅寺」は、「最初のイギリス公使宿館」だった。

写真:井伊 たびを

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東京都港区高輪にある「東禅寺(とうぜんじ)」は、臨済宗妙心寺派の別格本山である。当寺は、慶長15年(1610年)に、「嶺南崇六(れいなんすうろく)和尚」が、日向国飫肥(おび)藩(現在は日南市飫肥)二代藩主伊東祐慶(いとうすけのり)の帰依を受け、溜池付近の邸宅をもとに開山。

「東禅寺」という寺号は、開基の“伊東祐慶”の法名である、「東禅寺殿前匠征泰雲玄興大居士」からとられた。寛永13年(1636年)に、現在地に移転された。

江戸時代、東禅寺は、開基の「飫肥藩伊東家」をはじめ多くの大名の菩提寺だった。東禅寺を菩提寺としていた大名家には、陸奥仙台藩伊達家、備前赤穂藩池田家などがある。

「東禅寺」は、「最初のイギリス公使宿館」だった。

写真:井伊 たびを

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創建以来250年は、諸国大名の江戸における菩提寺であった。寛永6年(1853年)、日米及び、日英修好通商条約が締結された。その後、安政6年(1859年)には、イギリス公使「ラザフォード・オールコック」が境内に、“イギリス国旗”を掲揚し“イギリス公使宿館”になった。「山門」前には、「最初のイギリス公使宿館跡」の石碑が建っている。

「東禅寺」は、「最初のイギリス公使宿館」だった。

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「東禅寺」の山門は、昭和46年(1971年)に再建されたもの。とても美しくて立派だ。丁度、門前がひろいので、少し離れたところでしばし佇んで眺めていたくなる。「山門」の両端には躍動感が漲る“仁王像”が、お寺を守護している。

また、「山門」から伸びる参道もとてもすばらしい。大都会の中にあって、突然抱かれるその静寂に、何ものにも代えがたい癒しを味わう。いきなり足もとから飛び立つ烏に驚く自分に、苦笑したりもする。日常が一瞬にふっきれ、まったく新しい時を刻み始める瞬間だ。

「東禅寺」は「海上禅林」と呼ばれていた。

「東禅寺」は「海上禅林」と呼ばれていた。

写真:井伊 たびを

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現在の「東禅寺」は江戸時代に比べ縮小し、建物の多くも失われているが、イギリス公使宿館となっていた「僊源亭(せんげんてい)」や、その前の庭園は良好な状態で残っているとか。だが、残念ながら一般には公開されていない。

こちらの本堂と庫裏は、昭和6年(1931年)に建て替えられたもの。以前のものが震災や火災にあったためでなく、老朽化が進み建て替えられたとのこと。

「東禅寺」は「海上禅林」と呼ばれていた。

写真:井伊 たびを

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当寺は江戸時代、眼前に“江戸湾”が広がっていたことから「海上禅林」とよばれていた。本堂の扁額には、「海上禅林」と書かれている。

「三重の塔」と「観音様」

「三重の塔」と「観音様」

写真:井伊 たびを

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山門からのびる参道を緩やかに右に進むと、左手に「三重の塔」、前面に「本堂」を見つける。木々に覆われ、見え隠れする姿を、思わず見上げてしまう「三重の塔」。この塔は、建築後25年とのことである。

「三重の塔」の前には、とても穏やかな表情をされて“観音様”がおられる。思わず合掌。

「三重の塔」と「観音様」

写真:井伊 たびを

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「玄関」の柱に残る、生々しい刀痕!と弾痕!

「玄関」の柱に残る、生々しい刀痕!と弾痕!

写真:井伊 たびを

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幕末期、攘夷の風潮の中、神聖なお寺に異邦人を居住させたことに対し、抗議する“襲撃事件”が二度も当寺で起こった。その痕跡が、庫裏入口の軒屋根を支える二本の柱に、今もなお残っている。

本堂右手にある庫裏への「大玄関」、更に右手奥にも「玄関」がある。その「大玄関」の屋根を支える二本の軒柱には、銃弾でできた?であろう穴が数ヵ所残っている。また柱の角には、刀で切りつけられた?切欠けが数ヵ所ある。

当時の“凄まじい戦い”のあとがしのばれる。血気盛んな浪士と、応戦するイギリス側職員は、自らの“正義”を正統化しょうと武力行使に出たのだろう。今は昔、隔世の感を抱くばかりだ。

「玄関」の柱に残る、生々しい刀痕!と弾痕!

写真:井伊 たびを

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文久元年(1861年)のこと、攘夷派の“常陸水戸藩浪士”によって当寺が襲撃される「第一次東禅寺事件」である。オールコックは、その難を逃れたが、書記官らが負傷し、水戸藩浪士、警備兵の双方に死傷者が出た。柱の傷は、そのときのものだとされる。

「玄関」の柱に残る、生々しい刀痕!と弾痕!

写真:井伊 たびを

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翌文久2年(1862年)には、護衛役の“信濃松本藩藩士伊藤軍兵衛”によって、再び襲撃され、イギリス人水兵2名が殺害された。世にいう「第二次東禅寺事件」である。

やがて、7年に及ぶイギリス公使宿館により、「東禅寺」の檀家である諸大名の離檀を招き、経済的な支援もなくなり、境内は荒涼の一途をたどった時代もあった。

「宝物殿」と「狛犬」

「宝物殿」と「狛犬」

写真:井伊 たびを

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こちらは「宝物殿」。正面玄関は、19世紀中頃の部材を利用しているとか。「宝物殿」の正面玄関の両側には、狛犬が鎮座している。年代は不詳だか、姿かたちから類推すれば、かなり昔のものだ。

「宝物殿」と「狛犬」

写真:井伊 たびを

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境内には贅沢な静寂がある。

当寺を訪れるには、都営地下鉄・浅草線「泉岳寺駅」A2出口より徒歩約10分が便利だ。

幕末期に攘夷の風潮から“襲撃事件”があったのが“嘘”のような静寂。“心安らかになりたいとき”訪れたくなる寺院だ。現在は非公開だが、イギリス公使宿館となっていた「僊源亭」や、その前の庭園は公開されたらぜひ観てみたいものだ。

幕末期にアメリカ・フランス・オランダ等の公使館に当てられた寺院は、そのほとんどが大きく改変されてしまっている。ところが、「東禅寺」が当時の公使館の姿を、今に伝えるほぼ唯一の寺院であることから、境内が平成22年(2010年)2月、「国指定史跡」になっている。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/09/03 訪問

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