写真:吉川 なお
地図を見る適塾は医者・蘭学者である緒方洪庵が1838(天保9)年に開いた私塾で、正式には「適々斎塾」といい、洪庵の号である「適々斎」がその名の由来となっています。1845(弘化2)年に塾生の増加に伴い大坂市瓦町から現在地に移り、幕府の奥医師に請われて江戸に赴くまでの17年間、ここに起居して医業の傍ら後進の指導に当たりました。その後、女婿の緒方拙斎が引き継ぎ、1863(文久3)年に洪庵が江戸で急死した後も1886(明治19)年まで存続しました。
1869(明治2)年、現在の天王寺区上本町4丁目に大阪仮病院、医学校が設立され、洪庵の次男惟準(これよし)を院長に拙斎や洪庵の義弟郁蔵、塾生らがこれに従事。その後、幾多の変遷を経て、大阪帝国大学医学部、大阪大学へと発展し今日に至ります。
保存顕彰目的で大阪大学に寄贈され、太平洋戦争の戦災も奇跡的に免れた建物は、1964(昭和39)年に国の重要文化財の指定を受けました。老朽化に伴い5年に及ぶ解体修復工事が行われ、大阪大学の管理、運営の下、1980(昭和55)年から一般公開されています。
写真:吉川 なお
地図を見る適塾は2階建と平屋建が中庭で結ばれた表屋造りで、間口約12メートル、奥行約39メートルの敷地に建っています。1階奥が洪庵の家族の居住空間、1階の2間と2階が塾生に開放されていました。
写真:吉川 なお
地図を見る正面入口を入ると土間と式台のある玄関の間があり、そこから続く6畳の和室2間はオランダ語の読み合わせなどをする教室として使われていました。
その先の中庭の奥が緒方家の私宅部分で、中庭が見える6畳の茶室風の書斎、8畳の応接間、12畳半の書院風の客座敷、7畳の家族部屋、納戸、台所が並んでいます。
写真:吉川 なお
地図を見る武士の家に生まれながらも身体が弱かった洪庵は万人を救済する医学の道を志し、17歳の時に蘭学者、中天游の下で西洋医学を学び始めました。その後、江戸や長崎で修行を重ね、適塾を開いた年に天游門下の億川百記の娘、八重と結婚。緒方家の家事と子育ての傍ら、病弱の夫を助け、親切に患者の世話をし、塾生からも母のように慕われた彼女は適塾の陰の功労者として語り継がれています。
写真:吉川 なお
地図を見る2階は女中部屋と6畳と8畳の小部屋、28畳の塾生大部屋があり、塾生の勉学と寝場所に当てられました。現存する「姓名録」に記された門下生は637人で、外塾生をあわせると約1,000人いたと言われています。その中から「慶應義塾」を創設した福沢諭吉、日本近代兵制の父・大村益次郎、殖産興業に尽力した大鳥圭介、内務省初代衛生局長・長与専斎、日本赤十字社の創設者・佐野常民など幕末から明治にかけて活躍した多くの人材が輩出されました。
適塾は貴賎を問わず成績で序列化する実力主義の世界で、蘭書の講読に重きが置かれました。その読解に必要な蘭和辞書は「ヅーフ・ハルマ」と呼ばれる写本1セットのみで、6畳の部屋に置かれていました。
写真:吉川 なお
地図を見る「ヅーフ・ハルマ」は、長崎のオランダ商館長ヘンドリック・ヅーフがフランソワ・ハルマ著の蘭仏辞書を日本語に訳した手書きの辞書で、印刷手法を用いず写本で流通したため、とても希少で貴重なものでした。塾生たちはそれを奪い合いように利用したといい、それが置かれたヅーフ部屋の明かりは終日絶えず「5人も10人も群をなして無言で字引を引きつつ勉強している」と『福翁自伝』で福澤諭吉が述懐しています。
写真:吉川 なお
地図を見るヅーフ部屋に続く塾生大部屋には、常時数十人の塾生が寝起きしていました。1人が保有できるスペースはわずかに畳一畳で、成績の良い者から順に良い場所を選べました。
塾生は塾頭の下、学力に応じて8〜9級に分けられ、文法の本を2冊学んだ後に5日ごとに行われる原書の会読(翻訳の試験)に加わりました。塾頭、塾監、1等生が会頭となって各々の出来を○、●、△で採点し、3カ月間最上席を占めた者が進級するというシステムで、上席者から順に席次が決まるため、塾生同士の競い合いは熾烈なものだったといいます。
中央の柱に残る刀痕からも、塾生たちのエネルギーが感じられます。当時の彼らの様子は手塚治虫の『陽だまりの樹』にいきいきと描写されています。手塚治虫は1855年に359番目の門人として入塾した手塚良仙のひ孫で、同期だった福沢諭吉との愉快なエピソードは福翁自伝にも記されています。
写真:吉川 なお
地図を見る洪庵は適塾の指導とともに最新の医療の知識を紹介するため多くの蘭書を翻訳し、代表作と呼ばれる3つの著書を残しました。
『扶氏経験遺訓』はベルリン大学教授フーフェランドの926ページに及ぶ内科書2冊を完訳したもので、全30巻に及びます。その巻末「医戒の大要」は医者に対する戒めとなっており、それを12ヵ条に要約した『扶氏医戒之略』は医師たるものの本質を的確に捉えたもので、いまなお医学倫理教育に頻用されています。
『病学通論』は当時ほとんど未知であった病理学を世に紹介した書で、日本で初めて刊行された総論書でした。
写真:吉川 なお
地図を見る『虎狼痢治準(ころりちじゅん)』は、1858(安政5)年夏に長崎港停泊中の米艦で発生しそこから全国に蔓延したコレラの治療指針書として書かれたものです。コレラ流行の真っ最中に医師に配布するため、手元にある蘭書からコレラの項を抄訳し、わずか5、6日間で完成させたといわれています。
写真:吉川 なお
地図を見るもうひとつ高い評価を得ているのが、当時多くの死者を出し恐れられていた天然痘予防の功績です。イギリスの医師ジェンナーが発見した牛痘種痘法を広めるため、1849(嘉永2)年に大坂古手町(現・中央区道修町)に除痘館を設立し、無償でその普及に努めました。地道な活動と努力が実って幕府の官許を得ると、種痘医の人材育成にも取り組み、西日本各地に分苗所を設置するなど、今日の予防医学と公衆衛生学につながる先駆的な業績を残しました。
除痘館は1860(万延元)年に適塾の南側、現在の中央区今橋3丁目に移転し、その跡地に建つ緒方ビル4階の「除痘館記念資料室」で当時の様子を知ることができます。
写真:吉川 なお
地図を見るこのように教育だけでなく、医学界に多大な功績を残した洪庵は「人の為に生活して己の為に生活せざるを医業の本体とす」「病者に対しては唯病者を視るべし。貴賎貧富を顧みることなかれ」と『扶氏医戒之略』にしたためた戒めを自ら実践しました。
適塾は、医師として人としての生き方を身を挺して教えた師と、その薫陶を受け後姿を見ながら切磋琢磨した先人たちに思いを馳せることができる貴重な場だといえるでしょう。
住所:大阪市中央区北浜3丁目3番8号
電話番号:06-6231-1970
アクセス:京阪電車・地下鉄御堂筋線 淀屋橋駅、徒歩5分
京阪電車・地下鉄堺筋線 北浜駅下車 徒歩5分
営業時間:午前10時〜午後4時
定休日:月曜日(国民の祝日の場合は開館)
国民の祝日の翌日(土・日・祝日の場合は開館)
年末年始(12月28日〜1月4日)
2017年10月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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