豊臣家を滅亡に追い込んだ、ご存じ大阪夏の陣。その茶臼山の戦いにおいて、家康は敵から逃げる際に乗っていた駕籠(かご)ごと後藤又兵衛の槍に突かれて重傷を負い、南宗寺に運ばれて絶命したという伝説が残っています。そして、その伝説に沿うように、家康の墓が境内にあるのです。
この墓は、戦争で焼失した東照宮跡に、水戸徳川家家老の末裔・三木啓次郎氏によって東照宮跡碑として建立されたもの。墓の裏にある賛同者名の中には、松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助氏の名前も記されています。
また、徳川秀忠、家光の両将軍が相次いで同寺を参拝している記録があることからも、ここが徳川家にとって特別な場所であることが推測されるのではないでしょうか。
別の場所には、家康が絶命する前に座っていたと言われる石があります。写真、左のイスのような形の石がそれです。
この石に座るとご利益が得られる、と密かなパワースポットなんだとか。
死の直前に座っていた石のご利益って一体…?という疑惑が湧いたらぜひお試しを!
さらに、家康の亡骸が一時埋葬された場所もありました。その後、密かに日光東照宮へ改葬されたそうです。
堺生まれの茶聖・千利休も、ここ南宗寺にゆかりのある人物。堺で茶の湯を大成させた千家一門の供養塔があります。真ん中にある一番大きな塔が利休、右半分は表千家、左半分は裏千家の塔が並んでいるのです。
またその隣には利休の師である武野紹鴎の墓が存在。そこで湯の沸く音が聞こえたら、その人には茶心があるんだとか。
一滴の水も使わず、石と砂で山河を表現した「枯山水の庭」は、精神世界も表しており、その庭を眺めて自分と対話する場所でもあると言います。
家康や利休も、この庭を目にして自分と対話したのでしょうか…?
少しの間、この庭の前に座り、自分自身の心を語り合ってみる時間を持ってみてはいかがでしょうか。
ビルや住宅に囲まれるようにして残されている一角に、千利休屋敷跡はあります。
そこには椿の井戸と、利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を使って建てられた井戸屋型が残されています。
意外なほど質素な屋敷跡に、時の流れを感じます。
いかがでしょうか、家康・討ち死説。もちろん伝説の域を出ませんが、大阪夏の陣で命を落とし、その後1年余りは影武者がその役を担っていたとも考えられます。
一度、堺へ足を運んで、実際に家康の墓を見てみれば、その謎を解明できるかもしれません。また、新たな謎と出会うかもしれませんが…。
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(2024/12/5更新)
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