現存する5棟の城門はほぼ同じデザインです。初層は木造で左右どちらかに出窓が備わり、2層目は白漆喰の真壁造り。屋根は銅板本瓦葺きで庇は浅く、反りもありません。積雪を考えると余計な装飾は施せないということでしょうか。瓦は建設当初、本瓦葺きでしたが“凍て割れ”と呼ばれる瓦の凍結による破損で雨漏りに悩まされていたことから、瓦以上の耐久性に期待して宝暦4(1754)年に銅板本瓦葺きへ全面変更が決定されました。質実剛健たる風格が漂います。なお、写真は二の丸東門です。
文化7(1810)年に再建された天守閣も銅板本瓦葺きです。信枚が築城した際は五層の天守が本丸南西隅に構えていましたが、寛永4(1627)年に落雷で焼失してからは天守のない城でした。それが、文化5(1808)年に蝦夷地警備の軍役を負担させるために幕府による高直しがあり、10万石となって家格も上昇したことから9代藩主・寧親(やすちか)が天守再興を企図したのです。
本丸の南東隅が定位置ですが、現在は孕んだ本丸石垣の解体修理のために本丸中央に移されており、戻るのは平成35(2023)年になります。三重三階、層塔型の独立天守。鉄筋コンクリート造かと思うくらいずっしりとした重量感があります。壁の厚さは約30センチメートル。内壁と外壁との間に防弾目的で直径6センチメートルの栗石が敷き詰められており、そのために重厚感があります。
また、二の丸内には3棟の現存の櫓もあります。北東の丑寅櫓、南東の辰巳櫓、南西の未申櫓です。天守閣同様、三重三階。屋根は銅板葺き。防火のため、白漆喰塗りの土蔵造りになっています。切妻破風など見られますが、やはり簡素な造りです。写真は未申櫓になります。
段落1でご紹介した二の丸東門の東、三の丸にあって、東外門以南から追手門以東の南東部をほぼ占めるのが弘前城植物園です。弘前城を回りきるならこちらも必須ということです。こちらには三の丸庭園があります。非常に大らかな枯山水庭です。
三の丸庭園は現在の天守閣造営の際に9代藩主・寧親が三の丸御殿に移り住むにあたって、江戸より庭師を招いて作庭させたもので、津軽地方の庭園文化の源流としても貴重なものです。庭園の南には三の丸御殿があったと思われます。
ちなみに、植物園の南東隅には大石武学流庭園も設けられています。大石武学流とは幕末に起こり津軽地方で主流となった庭園様式です。平坦地に作庭され、干潟の表現を有し、大規模庭園の場合は岩木山や弘前城、津軽平野を借景にし、小規模の場合は守護石(庭園で起点となる石)を以て庭景をまとめるのが特徴になります。石材は近隣のもので大きく粗野なものを使用。弘前地域では岩木山で産出される岩木石なる石材を用いるようです。
庭石は確かに大きく、黒みを帯びています。これと苔とのコントラストが豪壮さを際立たせています。また、池泉奥中央には守護石らしき立石があります。これが高峰となって山岳に見立てた景を表し、護岸石組と併せて多彩な景が表現されています。庭石の配し方が絶妙なのです。植物園の隅ということは三の丸の隅でもあります。外堀側には3メートルはあろう土塁が屹立しており、ここでも弘前城の防衛機能を確かめられます。
本丸の西、西の郭へ。本丸と西の郭の間を断崖と蓮池が隔て、西の郭の外側にはさらに土塁と西堀。西堀の向こうには岩木川も流れて弘前城の守りの助けとなっており、弘前城の西側はとりわけ防御力の高い、攻めにくい方面になっています。さて、蓮池は字のごとく蓮の繁茂する池です。花期には水面を緑で蓋をして、その上に淡紅色を散らしてくれます。蓮池は守りにも風情にも貢献しています。
弘前城の郭内は現在、弘前公園として整備されており、大量に植えられたソメイヨシノのために全国区の知名度を誇る桜の名所となりました。江戸期、弘前城は津軽藩主の居城として弘前城下の象徴となっていましたが、天守閣などを残す弘前城は桜名所としての地位も借りながら現在も弘前市民の誇りとして存在し続けています。
弘前城(弘前公園)
住所:青森県弘前市下白銀町1
電話番号:0172-33-8739(弘前市公園緑地課)
アクセス:JR「弘前」駅から徒歩約30分
開館時間:9:00〜17:00(本丸・北の郭、弘前市植物園)
入館料金:本丸・北の郭、弘前城植物園各310円
2017年11月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2025/2/7更新)
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