開口神社は、奈良時代に神功皇后から塩土老翁神を祀る命を受けて建立したことに始まります。当時、仲哀天皇が急死したため、神功皇后が夫に代わって政事を行っていました。60年以上に亘って彼女は政事を司り、身重の時に自ら朝鮮に渡って出兵(三韓征伐)を指揮した勇ましい女性です。
応神天皇の母でもある神功皇后は、亡き夫の地位を守る妻として働き、政事にも長けて、母としての責任もこなしたパワーの持ち主で、聖母と呼ばれています。この神功皇后に肖って、子宝、安産祈願に訪れる女性も訪れます。子宝に恵まれた晶子もパワーを授かったのかもしれません。
本来の祭神である塩土老翁神は、海や船に関わる航海の神とされています。紀州街道沿いのこの町は、昔から人の往来が多く、堺の商人に限らず、この神社で人々は航海や旅の祈願をしていました。
また、天平時代にはこの神社の神社敷地に念仏寺が建立されて、神仏習合の霊地となり「大寺さん」として親しまれてきました。だから、昔から地域の人々が深く関わってきた場所と言えます。堺の町の発展とともに中心地として人々が集まる場所となり、商人だけでなく一般庶民を守る場所となります。
このような場所で、、幼少期の晶子は遊びながら色んな人と触れ合って感受性を育んできました。
境内には、白髭神社、金毘羅神社、厳島神社、少名彦神社などの摂社、末社もあり、本殿だけでなく、全ての神様を毎日お参りされる地元の人が多くいます。昔から堺の地に根付いた神社であることがわかります。
晶子の生家とこの神社とは、300メートルほどしか離れていないこともあり、この神社も幼少時代から家族とともにこの神社で沢山の神様に色々なお願い事をしたのでしょう。
堺の老舗和菓子屋の三女として生まれた晶子は、裕福な家庭で育っていたものの、古い商家の考え方から、二人の兄と比べて両親の愛情は薄かったようです。ただ、当時の女性としては高等な教育を受けていたので、歌人としての活動だけでなく、女性の目から見た平和の活動や、特に女性への教育には力を入れました。
堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)では、文学に親しんだ学生時代を過ごしています。彼女の文学的才能を育てた学校発祥の地として記念碑もあります。だから、彼女を師と仰ぐ人々は多く、そんな人々や文学ファンもこの神社を訪れます。
神社周辺は、昔ながらの建物は少なくなり、今ではすっかり整備された町に変わりました。高層マンションに囲まれており、商店街沿いに位置します。便利の良いこの神社には、今でもマンションから晶子の幼少時代同様に子供たちが集まってきます。この子供達にとってもここは、身近に歴史的に有名な女流歌人晶子の存在を認識できる場所なのです。
恋愛で悩む人にとって気になるのは、その行末。誰もが気になるところです。だから、祈願した後には、是非ともおみくじを。開口神社のおみくじは、晶子の歌で表わされています。彼女の熱い歌は、恋愛に悩む人達を勇気付けて、晶子のパワーが伝授される事間違いなしです。
おみくじは、可愛い和柄の筒の中に入っていて、筒を開けると晶子の歌が書かれたおみくじの紙と、水引が入っています。おみくじに書かれているのは、晶子の歌とともに貴方の恋の行方。歌の解説もありますので、彼女の表現豊かな歌を味わうこともできます。水引は、航海の無事を祈る守りや海賊から身を守る魔除けとしての意味があります。恋の航海を安全に、また恋敵から守るために、この水引をお守りしてみては、いかがでしょうか。
おみくじの内容を祈願するために、晶子の碑の近くにおみくじを結びつける場所が設けられています。恋の実が結ぶように、ハート型の木枠におみくじを結ぶも良し。持ち帰って晶子の歌を何度も読み返してパワーにするのも良し。
才能ある女流歌人だっただけでなく、女性教育にも力入れた女性活動家であった与謝野晶子。結婚に至るまでには恋愛女性の苦労が絶えず、結婚してからも経済的、夫の浮気に悩まされていました。そんな状況でも、彼女は愛することを続けて精力的に活動しています。
彼女のエネルギッシュな人生は、現代の女性達も受け継ぎたいところです。人生に活力を与えるためにも、恋愛に消極的な方、ぜひとも晶子のパワーをここで授かって下さい。
住所:大阪府堺市堺区甲斐町東2丁1-29
電話番号:072-221-0171
アクセス:阪堺電気軌道阪堺線 大小路駅[出口1]から徒歩約3分
2017年11月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/4/19更新)
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