鶴岡八幡宮前から東へと抜ける金沢街道の曲がり角に宝戒寺はあります。開基は後醍醐天皇。開山は天台座主・五代国師「円観恵鎮慈威和上」です。
1335年に創建され、本尊は「子育経読地蔵大菩薩」です。境内には本尊を安置する「本堂」の他、聖徳太子像を祀った「太子堂」や後に建てられた北条氏を供養する「宝篋印塔」・「鐘楼」などがあります。後醍醐天皇が創建を命じた寺院だけあり、皇族の方々も訪れている由緒あるお寺です。
この場所は2代執権北条義時が「小町邸」という屋敷を造成して以来、代々北条氏の邸宅でした。1333年、新田義貞の「鎌倉攻め」により鎌倉幕府は滅亡し、北条一族も滅びました。北条氏九代の霊を鎮魂し、また国家を担う人材を養成する道場として、後醍醐天皇が足利尊氏に命じてこの屋敷跡に建立させました。
その後、関東管領上杉憲忠の暗殺を機に「享徳の乱」が勃発。そのあおりを受けて1455年、仏殿や惣門などが破壊されますが、江戸時代になると徳川家康に寺領を寄進され、寺院の存続が約束されます。
ちなみに関東大震災でも大きな被害を受けましたが、その際、本尊の地蔵菩薩像の胴が割れました。その記録から、京都の三条仏師「憲円」が1365年に造ったことが判明し、思わぬ発見となりました。
拝観受付の横には、萩の名所として有名なことから「萩のハンカチ」が授与品としておかれています。また、宝戒寺は「鎌倉七福神」のひとつである毘沙門天を祀っており、「七福神守り」なども授かることが出来ます。
境内を散策する際かさばらないよう、折りたたんで収納できる袋を一つ持っておくと便利です。
本堂には国の重要文化財となっている本尊「木造地蔵菩薩座像」をはじめ、脇侍の「梵天立像」や「帝釈天立像」など多くの仏像が並んでいます。
本堂の鐘は自由につくことができます。参拝をする際、賽銭箱は目の前にあるものですが、香炉(線香を立てる灰の入った陶器)が大きいこともあって裏側に設置されています。不格好ですが、横から置くように投げて下さい。
参拝を終えたら、靴を脱いで本堂内へ上がってみましょう。受付時にもらえる「拝観券」を指定の箱に入れてから脱帽して入ります。「仏像と福徳の天女」や「縁結びの天女」を観覧した後、庭を一望するのは至福のひとときです。
宝戒寺は鎌倉時代に比べると、現在の寺領は10分の1ほどですが、それでも鎌倉にある寺院としては広いといえます。本堂横には、新田義貞によって滅ぼされた北条一族と戦死者を供養する宝筐院塔(ほうきょういんとう)が建っています。
混雑時には本堂の参拝で列ができてしまうので、午後3時過ぎに訪れると比較的に空いていて、境内をじっくり拝観することでができます。
境内は回廊のようになっているので、休憩用のベンチも備え付けられています。もちろん「禁煙」です。樹木が多く茂っているので外観は遮断され、仏法の世界観に自然と吸い込まれていきます。
四季折々の花々を愛でながら、この地で起こった歴史を思い巡らせると、御仏の神々しさがより強く伝わってきます。
宝戒寺には、鎌倉で唯一の「聖徳太子堂」があります。聖徳太子は飛鳥時代、工芸技術を振興したことから、今でも工芸や建築に関わる鎌倉の職人さんから尊崇を受けています。
毎年1月22日には、境内で建築関係者が集まり「太子講」が執り行われます。太子堂で護摩を焚き、読経のあと「木遣唄」が奉納されます。寺院の授与品の中にも「聖徳太子絵馬」があり、関係者の多くが授かっていきます。
「徳崇大権現堂」には鎌倉幕府第14代執権、北条高時が祀られています。第15代執権の北条貞顕は政争によって短命政権に終わり、実権は北条高時が握っていました。その後討幕運動が起こった為、事実上、鎌倉幕府において最後の権力者となりました。
「徳崇大権現会」という行事が5月22日に行われるのですが、この日は新田義貞の「鎌倉攻め」によって北条一族が滅亡した日であり、鎌倉幕府が滅亡した日でもあります。
「大聖歓喜天堂」には「歓喜天立像」が安置されています。歓喜天立像は頭部が象の姿で、首から下は人体という「双身像」です。国の重要文化財に指定されていますが、非公開なのが惜しまれます。
歓喜天立像は「秘仏」として安置されています。鎌倉地域独特の「土紋装飾」が施されたもので、日本最古の「木造聖天」といわれています。
二代住持の「惟賢」が歓喜天立像を安置し、国家安泰を祈願しました。天堂には歓喜天立像の他、仏涅槃図・十一面観世音菩薩・十王厨子地蔵菩薩や「鎌倉六阿弥陀」の一つである阿弥陀如来が祀られています。
新田義貞の「鎌倉攻め」により、宝戒寺の南東にある「腹切りやぐら」で北条高時をはじめ北条一族870名余りが自害したと言われています。滅亡した北条氏の霊を弔うため、後醍醐天皇は京から離れたこの地に自ら寺院の創建を命じました。
「梵鐘」は現在立ち入り禁止になっています。ただ、その大きさは鎌倉五山などと比較しても劣らないもので、朝廷の威厳や権威も同時に伺い知ることができます。
日常生活で「お地蔵さん」といえば最も親しみのある仏様でしょう。現在も道端にいるお地蔵さんを見かけると、ついつい手を合わせてしまいます。仏教では「六道」と呼ばれる六つの世界にいるすべての者を救済する仏とされています。
「六地蔵」と呼ばれるお地蔵さんは全国各地に存在し、市内でも六地蔵を祀った交差点があります。鎌倉では「二十四地蔵」が定められており、巡礼すると願いが叶うといわれています。一番札所である宝戒寺から二十四番札所である安養院までを参拝する巡礼となっています。
現在は閑静な寺院ですが、鎌倉時代は寺領も多く、子院もたくさんありました。江戸時代は「天海僧正」が関東における天台宗の本寺として、徳川家康に懇願したほどです。
国や県指定の文化財を多数所有しており、数少ない天台宗の寺院として寺格の筆頭に挙げられます。萩の咲く頃には多くの観光客で賑わいます。
萩はもちろんのこと、春には白木蓮・桜・無患子(むくろじ)・木瓜(ぼけ)、夏には睡蓮や百日紅(さるすべり)が咲きます。そして、秋になると酔芙蓉・萩・彼岸花、冬は水仙、椿、蝋梅(ろうばい)、梅、枝垂梅などが満開となり、多くの花々が四季を通じて楽しめます。
「宝篋印塔」前から墓地までのL字に伸びる石畳の外側には、「シロバナタンポポ」が数百株植えてあります。中には黄色いタンポポも見られますが、それは私たちが道端でよく目にする「日本タンポポ」です。
参道の途中には「無患子」の木やその石碑、お地蔵さんも安置されています。本堂の縁側も通るので、本堂から庭を見物している参拝客と目が合ってしまうこともしばしばです。
鎌倉市内でも天台宗の寺院は少なく、質実剛健のイメージが強い禅寺などと比べると気品溢れる境内が印象的です。
開基の後醍醐天皇は宝戒寺だけでなく、縁切寺で有名な「東慶寺」にも御縁があります。南北朝の騒乱で皇女が東慶寺に出家しているのです。
鎌倉幕府滅亡後、時代は天皇を中心とした「建武の新政」へ移っていくことになります。政(まつりごと)を行うにあたり、京から遠方の地に寺院の創建を命じたのも、全てを清め新しい世の中を築いていきたいという強い想いがあったのでしょう。
<基本情報>
住所:神奈川県鎌倉市小町3丁目5−22
電話番号:0467-22-5512
アクセス:JR横須賀線北鎌倉駅から徒歩13分
拝観時間:8:00〜16:30
2017年11月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/10/14更新)
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