サラエボ〜多くの民族と宗教が混ざり合い、歴史を重ねて来た首都〜

サラエボ〜多くの民族と宗教が混ざり合い、歴史を重ねて来た首都〜

更新日:2017/12/21 10:37

大竹 進のプロフィール写真 大竹 進 元旅行会社勤務、元旅行専門学校講師
サラエボと聞くとかつて行われた冬季オリンピック、或いはユーゴスラビア解体に伴って起きた悲惨な紛争を思い浮かべる方が多いかと思います。
古くはローマ帝国、中世にはオスマン帝国、そして近代ではオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったボスニア・ヘルツェゴビナは、その長い歴史の中で多彩な文化が育まれました。首都サラエボには今もそれらの文化が色濃く残り、訪れる人にエキゾチックな体験をさせてくれます。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の傷跡

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の傷跡

写真:大竹 進

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ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争とはユーゴスラビア解体に伴って、ボスニア・ヘルツェゴビナに居住していた民族の内、ボシュニャク人とクロアチア人が独立を推進したのに対し、セルビア人はこれに反対し分離を目指したため1992年から1995年まで続いた内戦で、20万人以上が犠牲となり、難民・避難民200万が発生したとされる民族紛争です。

サラエボの中心地から少し北へ行った所に、1984年に開催されたサラエボ冬季五輪のスタジアムなどの施設があります。しかし今そこを訪れて目にするのは膨大な数の墓標です。

写真は五輪スタジアムの補助グラウンドのあったエリアですが、紛争中は周囲を包囲され、犠牲者を墓地に運ぶ事も出来ず、埋葬する場所も無かったため、グラウンドを墓地としたものです。平和の祭典が行われた場所が、紛争の犠牲者の埋葬地になってしまったというのは何とも皮肉な事です。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の傷跡

写真:大竹 進

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この黄色のビルは、紛争中世界のジャーナリストが滞在し、世界にその惨状を発信した旧ホリデイ・インです。目の前の大通りはスナイパー通りと呼ばれ、高層ビルに潜んでいるセルビア人狙撃兵に子供や老人、女性も狙い撃ちされました。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の傷跡

写真:大竹 進

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オーストリア=ハンガリー帝国時代に建てられたサラエボのシンボルとも言える旧市庁舎は、ムーア様式の傑作として名高く、後に国立図書館となりましたが、目の前を流れるミリャツカ川が紛争時の前線となっていた事もあり、砲撃で外壁を残して全焼し、貴重な蔵書は殆どが灰燼に帰してしまいました。しかし修復工事が2014年に終わり、かつての美しさを再び見せています。

<旧市庁舎の基本情報>
開館時間:夏期10:00〜20:00、冬期10:00〜17:00
休館日:月曜
入館料:5マルカ(約300円)

第一次世界大戦の発端となった現場、ラテン橋

第一次世界大戦の発端となった現場、ラテン橋

写真:大竹 進

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1914年6月28日、ボスニアを支配していたオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻がサラエボを訪れた際、政治結社・青年ボスニア党のセルビア人ガブリロ・プリンツィプに狙撃され死亡しました。この「サラエボの銃声」が世界各国を巻き込む第一次世界大戦の切っ掛けとなり、事件の現場前に架かるラテン橋は、狙撃犯の名前から一時はプリンツィプ橋と呼ばれていました。

第一次世界大戦の発端となった現場、ラテン橋

写真:大竹 進

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ラテン橋の前にあるこのビルがフランツ・フェルディナント皇太子夫妻が狙撃された現場です。現在はサラエボ博物館となっていて、1878年にボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリアに併合され、人々の暮らしがどの様に変わったかを紹介し、皇太子夫妻の暗殺事件も詳しく説明されています。

<サラエボ博物館の基本情報>
開館時間:
夏期 月〜金 10:00〜18:00、 土 10:00〜15:00
冬期 月〜金 10:00〜16:00、 土 10:00〜15:00
休館日:日曜
入館料:4マルカ(約240円)

第一次世界大戦の発端となった現場、ラテン橋

写真:大竹 進

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サラエボ博物館の外壁には、皇太子夫妻の暗殺事件に関する写真が掲示され、事件直後の現場の様子や、狙撃犯のガブリロ・プリンツィプの写真も見られます。

サラエボのヨーロッパの顔

サラエボのヨーロッパの顔

写真:大竹 進

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多民族・多宗教が共存して来たボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボでは、狭いエリアの中で様々な文化が見られます。宗教においてもカトリック、東方正教会、ユダヤ教、イスラム教などの各宗教施設が目と鼻の先に建ち並び、コスモポリタンな雰囲気に溢れています。

都心にあるカトリック大聖堂は、ボスニア・ヘルツェゴビナで最大のカトリック教会の大聖堂で、正式にはイエスの聖心大聖堂と言い、1889年に完成しました。紛争時は激しく損傷を受けたものの、紛争後に修復されています。大聖堂はサラエボの象徴として用いられ、入り口の上の窓のデザインはサラエボ県の県旗と県章に、ロマネスク風の2本の塔はサラエボの市旗と市章に使用されています。

サラエボのヨーロッパの顔

写真:大竹 進

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カトリック大聖堂前の街並は欧風の建物が並び、ここが間違いなくヨーロッパの一角である事が実感出来ます。

サラエボのヨーロッパの顔

写真:大竹 進

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カトリック大聖堂前のフェルハディヤ通りは歩行者天国になっていて、洒落たカフェが並び、西欧の街角かと思うほどです。

サラエボのアジアの顔

サラエボのアジアの顔

写真:大竹 進

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しかしこのフェルハディヤ通りをもう少し行くと、「SARAJEAVO MEETING OF CULTURES」という表示があり、ここから東側は全く違った街並が始まります。言うなればサラエボの中の文化の境界線です。

サラエボのアジアの顔

写真:大竹 進

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「SARAJEAVO MEETING OF CULTURES」の東側はオスマン帝国時代の街並が残るオリエンタルムード溢れるエリアです。まるでトルコの町を訪れているのではないかと思える程で、モスクもそこかしこに見られますが、その中で1531年に建てられたガジ・フスレブ=ベグ・ジャミーヤはボスニア・ヘルツェゴビナで最も重要なイスラム寺院です。

<ガジ・フスレブ=ベグ・ジャミーヤの基本情報>
拝観時間:
夏期 9:00〜12:00、14:30〜16:00、17:30〜19:00
冬期 9:00〜11:00
休館日:断食月、祝日
拝観料:3マルカ(約180円)

サラエボのアジアの顔

写真:大竹 進

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サラエボの旧市街の中心にはバシチャルシアと呼ばれる職人街が広がり、オスマン帝国の名残を留める水飲み場(セビリ)のあるバシチャルシア広場には、いつも多くの人が集まり賑わっています。カトリック大聖堂からこの広場まではわずか400m程。その違いの大きさに驚かされます。

オリエンタルムード溢れるバシチャルシア

オリエンタルムード溢れるバシチャルシア

写真:大竹 進

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バシチャルシアの職人街に足を踏み入れると、そこはまるで中近東のバザールを歩いている様な感覚に襲われます。店の看板になっている大きな銅製の水差しや、大小様々な金銀細工、指輪やアクセサリー、民族衣装など多種多様な店が所狭しと並び、それらを眺め歩いているだけでも楽しい所です。

オリエンタルムード溢れるバシチャルシア

写真:大竹 進

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バシチャルシアにはお土産の店だけではなく、レストランや喫茶店も多く、伝統的なトルコ珈琲やチャイの店、そして露店もあちこちで店を広げています。そのひとつがザクロジュース売り(写真)。ザクロの実を搾り機にセットしてそのまま圧縮、無添加無調整の美味しいフレッシュジュースがその場で味わえます。

オリエンタルムード溢れるバシチャルシア

写真:大竹 進

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バシチャルシアで見掛けるお土産には伝統的なものだけではなく、思わずハッとする様なものもあり、写真は薬莢や銃弾で作られたボールペンです。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で如何に多くの銃弾が飛び交い、人々が心身ともに傷つけられたのか、複雑な思いにさせられる品です。

歴史を体感出来る町サラエボ

サラエボは古くからの歴史と多民族・多宗教が混ざり合ったボスニア・ヘルツェゴビナの首都で、コスモポリタンな町です。ほんの少し歩いただけで全く違った様相を見せる街角は、旅人には堪らない魅力。一方泥沼の紛争が終結してから20年以上過ぎましたが、当時の惨状を伝える場所も残り、平和の尊さを実感させてくれる町でもあります。
そんな様々な事柄が体感出来る町サラエボをあなたも訪れてみませんか。

2017年12月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/10/22 訪問

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