悪僧ここに眠る!?奈良「隆光大僧正の墓石」と消えた「超昇寺」

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悪僧ここに眠る!?奈良「隆光大僧正の墓石」と消えた「超昇寺」

悪僧ここに眠る!?奈良「隆光大僧正の墓石」と消えた「超昇寺」

更新日:2018/02/22 17:10

花月 菊乃のプロフィール写真 花月 菊乃 地域文化・民俗文化リサーチャー、グラフィックデザイナー、旅行ライター

奈良市のある保育園の裏手に、人知れず、ひっそりとたたずむ墓石があります。墓石には、隆光大僧正(りゅうこうだいそうじょう)の文字が刻まれています。大僧正とは、僧侶の階級の中で最高位に位置します。

なぜ、そんなにも位の高い僧侶が、このような寺院でもないはずれの一区画に、眠っているのでしょうか?今回は、隆光大僧正がかつて隠居した超昇寺、そして、知らざる偉業を紹介します。

犬公方と隆光大僧正

犬公方と隆光大僧正

写真:花月 菊乃

隆光大僧正の墓石は、平城宮跡第一次太極殿の北西側にある佐紀池の向こう側にあります。このあたりは、奈良らしいのどかな風景が広がり、佐紀池には水鳥がやってきては、のんびりと羽をのばしたりする様子や、付近の人たちが犬の散歩をしているのをよく目にします。

犬というと、かつて江戸時代(1603〜1867)に、犬公方(いぬくぼう)とあだ名された将軍がいたことを知っていますか?

公方とは、将軍への尊称で、「―様」という意味があります。
お犬様とあだ名された将軍は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉。徳川綱吉は、生類憐れみの令をだし、自身が戌生まれであったことから犬を特に大切に保護しました。

生類憐れみの令は、一文の法令でなく、1685年から1709年に徳川綱吉が亡くなり法令が廃止されるまで、135回もだされた人間と動物全般に対する憐れみのおふれと、政策体系の総称です。生類憐れみの令は、天下の悪法ともいわれ、徳川綱吉は人々からこの法令への皮肉をこめて、「犬公方」と呼ばれました。

徳川綱吉は、なぜこのような法令と政策を行うことになったのでしょか?ある一説では、子宝に恵まれず悩む綱吉に、綱吉の母・桂昌院も心酔していたある僧侶が、「生き物を大切に、戌生まれなので犬を特に保護するとよい」と進言したからといいます。

その僧侶の名は、隆光。

犬公方と隆光大僧正

提供元:写真AC

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河辺隆光は、江戸時代の1649年に奈良の超昇寺村(現在の佐紀町)に生まれました。奈良で12歳で出家し、長谷寺などで学んだ後、1686年に江戸・湯島の知足院住職となり、江戸城中鎮護の祈祷を務めます。同年には、徳川綱吉に認められ権僧正に、1691年に僧正、1695年には僧侶の階級の中で最高位である大僧正になります。

この頃の隆光は、日々江戸城に登城し、5代将軍の護持僧として権力をふるいました。しかし、悪法とされた生類憐れみの令の発案者として綱吉の死後は役目御免となり、通法寺に左遷され、1709年に故郷の奈良・超昇寺に隠居し、1724年に亡くなりました。

隆光大僧正の墓石

隆光大僧正の墓石

写真:花月 菊乃

佐紀池と御前池の間の道を東に向かって歩いていくと、隆光大僧正の墓石についてかかれた看板を目にします。

超昇寺は、前期と後期の2院があったといいますが、どちらも現在は存在していません。

前期・超昇寺は、佐紀神社(亀畑)の北側にあったと伝わります。
超昇寺は、平安時代(794~1185)の810年に、藤原薬子らと薬子の変をおこした平城天皇の皇子、高丘親王が出家し、真如上人となり、父が晩年住んでいた平城宮北側にあった楊梅宮を、835年に寺としたものです。一時は、南都十五大寺の一つに数えられるほどでしたが、1180年に、平重衡の南都焼き討ちで焼失、その後も兵火などに焼かれ、次第に衰退していきました。

後期・超昇寺は、佐紀こだま保育園の周辺一帯にありました。
江戸時代に、隆光大僧正が隠居し、復興に努めましたが、隆光大僧正の死後、明治(1868~1912)の排仏毀釈で取り壊され、今はありません。隆光大僧正の墓石があるのが、後期・超昇寺があったとされる一帯の一角です。

看板があるのは、この佐紀こだま保育園のある、後期・超昇寺がかつて存在したあたりになります。

隆光大僧正の墓石

写真:花月 菊乃

看板の左手に、階段があり、そこを降りて道なりに佐紀こだま保育園の後ろに回り込んでいくと、墓地のような一角が現れます。

隆光大僧正の墓石

写真:花月 菊乃

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そこに、隆光大僧正の墓石はあります。一時は栄華を誇った大僧正のお墓にしては、質素でその名すらも忘れ去られたかのような感があります。

<隆光大僧正の墓石基本情報>
住所:〒630-8003 奈良県奈良市佐紀町2715
電話:0774-86-5171(隆光僧正顕彰会事務局・山城町延命院内)
アクセス:近鉄大和西大寺駅より徒歩10分

違った角度からみる眺め

違った角度からみる眺め

写真:花月 菊乃

隆光大僧正の墓石と超昇寺がかつてあった一帯からは、平城宮跡の太極殿が目に入ります。その前に、剪定された植木が並ぶのですが、平城宮跡正面側からは、目にすることができない眺めです。

違った角度からみる眺め

写真:花月 菊乃

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隆光大僧正は、生類憐れみの令を徳川綱吉に公布させ、世の中を混乱させた悪僧のようにいわれていますが、本当にそうだったのでしょうか?超昇寺跡からの太極殿の眺めのように、普段とは違った角度から、隆光大僧正をみてみます。

最初の生類憐れみの令がだされた1685年、隆光は江戸にいなかったといいます。これでは、隆光が直接進言したという説に、信憑性がなくなってしまします。

観光客でにぎわう東大寺大仏殿ですが、実は2度焼失しています。復興のために諸国をまわり寄付を集める造営勧進には、鎌倉時代(1185〜1333)に重源(ちょうげん)上人が、江戸時代には公慶(こうけい)上人がそれぞれあたられました。

実際の隆光は、奈良の寺社修復につくした傑僧でした。特に江戸時代、公慶(こうけい)上人の東大寺大仏殿再建に大きく貢献しました。

公慶上人は始め、大仏修復のための諸国勧進に取りかかります。必要資金は、現在の金額で10億円ほど。無事資金を集め大仏は修復されますが、大仏殿の再興には、さらに大仏修復の10倍もの額が必要で、幕府の力をかりなければなりませんでした。

その際、公慶上人と徳川綱吉・桂昌院との間をとりもち、事業の後援を進めたのが、隆光大僧正です。

違った角度からみる眺め

提供元:写真AC

https://www.photo-ac.com

また、徳川綱吉と生類憐れみの令を見直す動きもあります。

綱吉の時代には、まだ戦国時代の荒々しい空気が残っており、カブキ者という荒くれ者の存在に頭を悩ましていました。昼間から刀を振り回し、放火や辻切り、幕府の権威への反抗の証として、武士の飼い犬を勝手に食べてしまうこともしばしば。

社会のモラルを正すため「無駄な殺生はいけない」という今なら当たり前ともいえる思想を人々の中に浸透させ、意識変革をするために生類憐れみの令をだしたという説です。確かに、現代の日本で、犬が歩いていても、「食べよ!」とならないのは、徳川綱吉の行った意識改革によるものが大きいのかもしれません。

超昇寺ゆかりの超昇寺城跡

超昇寺ゆかりの超昇寺城跡

写真:花月 菊乃

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現在は、その姿をとどめない超昇寺ですが、かつてのこの一帯の隆盛を伝える超昇寺城跡が超昇寺がかつてあったあたりの北西にあります。

超昇寺城は、室町時代(1336~1573)、超昇寺の僧が出目といわれる地元豪族、超昇寺氏が築城しました。超昇寺氏は、室町時代の応仁・文明の乱(1467~1477)では、筒井氏方として戦い活躍しました。超昇寺城は、戦国時代(1467/1493~1590)の1580年まで存続しました。

その跡地は、地図上にその姿を記すものの、実際現地にいってみると竹林になっていて、知らなければ通りすぎてしまうほど、看板もなく分かりづらいです。


<大和超昇寺城跡基本情報>
住所:〒631-0803 奈良県奈良市山陵町
アクセス:近鉄大和西大寺駅より徒歩15分

平城宮跡や東大寺を訪れるついでに立ち寄りたい

超昇寺を開基した真如上人の父、平城天皇は、皇位を嵯峨天皇に譲り、平城京に居場所を移しますが、再び重祚しようと画策し、平城京へ都を遷都しようとしました。

皇子でありながら出家しなければならなかった真如上人は、父からゆずり受けた楊梅宮を寺としました。本来なら、皇子として楊梅宮を賜うはずだった真如上人は、インドへ仏教の心髄を求めて旅にでて、途中で消息を立ち亡くなりました。

隆光大僧正の墓石は、平城宮跡から歩いて5分ほどの場所にあります。かつてこの場所にあった超昇寺と、楊梅宮、隆光大僧正と東大寺大仏殿の復興に思いをはせるために、訪れてみたいスポットです。

付近は、のどかな奈良の日常が広がっていて癒されます。超昇寺跡からの、大極殿の眺めもおすすめです。


2018年2月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2018/02/13 訪問

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