写真:乾口 達司
地図を見る松任城の築造は、平安時代末期にさかのぼります。当時、この地を支配していた松任氏の館が置かれたのが、そのはじまり。戦国時代に入ると、一向一揆の旗本「松任組」の本拠地となり、次第に城砦の形が整えられます。大規模な合戦に見舞われたのは、天正5年(1577)のこと。上杉謙信と織田信長の軍勢とが激突した手取川の合戦に際して、上杉軍の猛攻にさらされます。しかし、それでも落城せず、上杉軍は講和に持ち込まざるを得ませんでした。堅牢そのものであった松任城が落城したのは、天正8年(1580)。松任城を落としたのは、織田方の猛将・柴田勝家でした。その後は前田利長などの支配下に置かれ、慶長19年(1614)、江戸幕府の打ち出した一国一城令に先駆けて、廃城となっています。
松任駅南口の駅前ロータリーの向かいに、大きな公園が広がっています。何の予備知識も持たずに訪れると、どこにでも見られる普通の公園に思えることでしょう。しかし、石碑に「松任城址公園」と刻まれているように、ここにはかつて松任城の本丸が築かれていたのです。古い図絵によると、周辺にはかつて二ノ丸や三ノ丸、矢倉台なども設けられており、その周囲は幅20メートルにおよぶ水堀や空堀、土塁などで幾重にもかこまれていました。
大阪城や江戸城などと異なり、地方の城郭というと、砦や館のようなささやかな規模のものを想像してしまいがちです。しかし、松任城が、私たちの想像を超える規模のお城であったということが、ここからはわかりますね。
写真:乾口 達司
地図を見る公園をぐるりとめぐってみましょう。公園の一角だけが周囲の道路より、一段、高くなっているのが、おわかりになるでしょう。特に北側の高まりは顕著で、お城でもっとも重要な本丸が、まさしくここに築かれていたことを指し示しています。その高まりから突き出ているのは、ケヤキの大木。樹高二十数メートルという大きさからは、ケヤキの巨木が数百年にわたって松任城の歴史を見守り続けてきたことを表わしています。
写真:乾口 達司
地図を見る駅前ロータリーの一角に、写真のような古びた石碑が残されています。これはかつての松任城の規模を指し示した石碑。ここはお城の北東の隅に当たります。茶色いビルの向こう側、上で紹介した大ケヤキが顔をのぞかせているのが、おわかりになりますか?こんなところにまでお城が広がっていたのですね。
写真:乾口 達司
地図を見る城の西北部分は、現在、建設中の新幹線の高架をまたぎ、その反対側にまで張り出しています。石碑と隣接するように建つのが、松任金剣宮(まっとうかなつるぎぐう)。松任金剣宮は養老元年の創立で松任城の城主だった鏑木氏らに厚く尊崇されており、彼らによって、荘厳な社殿が建立されました。いわば、松任城の守り神というべき存在であり、お城が松任金剣宮と隣接していた理由が、この由緒からも納得できますね。
写真:乾口 達司
地図を見る松任城址公園に戻りましょう。公園内では、写真の忠魂碑にも目を向けてください。幾重にも積み上げられた巨大な基壇の上に屹立する姿は壮観で、見るものを圧倒します。もちろん、忠魂碑自体は近代になってから作られたものですが、それが松任城の本丸址に建てられていることからは、近代以降もここが松任の街の中心地であると、地元民から強く認識されていた証であるといえるでしょう。
松任城がいかに古い歴史を持ち、想像以上の規模を誇るお城であることが、おわかりになったのではないでしょうか。ほかにも、かつての痕跡をとどめた石碑などが松任駅の周辺に点在しており、当時の規模を推し測ることができます。そういった痕跡をご自身の足で探りながら、往時の姿に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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この記事を書いたナビゲーター
乾口 達司
これまでは日本文学や歴史学の世界で培った見識にもとづいて数多くの評論や書評を執筆してまいりました。奈良生まれ、奈良育ちの生粋の奈良っ子。奈良といえば日本を代表する観光地の一つですが、地元民の立場からい…
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