大阪で感じる古代の技術と政治の匂い〜堺・百舌鳥古墳群〜

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大阪で感じる古代の技術と政治の匂い〜堺・百舌鳥古墳群〜

大阪で感じる古代の技術と政治の匂い〜堺・百舌鳥古墳群〜

更新日:2018/03/23 14:23

小谷 結城のプロフィール写真 小谷 結城 国内旅行業務取扱管理者、京都検定2級、温泉ソムリエ、日本城郭検定2級、国内旅行地理検定2級

大阪府には世界文化遺産を目指す史跡群があります。百舌鳥(もず)・古市古墳群です。そして、2つの古墳群のうち、堺市内に点在する古墳群を百舌鳥古墳群といいます。大阪湾を望む台地に約4キロメートル四方の範囲にわたって築かれたものです。4世紀後半に築かれ始め、6世紀前半までの間に100基以上の古墳が築かれたとされています。今回はそんな百舌鳥古墳群より主だった古墳をご紹介したいと思います。

百舌鳥古墳群の次席「履中天皇陵古墳」

百舌鳥古墳群の次席「履中天皇陵古墳」

写真:小谷 結城

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堺市の中心市街から南方、まずはJR「上野芝」駅から近い履中天皇陵古墳です。5世紀前半頃に造られた全長365メートル、日本で3番目に大きい前方後円墳です。木々の疎らなところから堀を覗くことができた。さすがに大きく、幅は100メートルくらいあります。

さて、葬られているとされる履中天皇は仁徳天皇を父とする第17代天皇です。仁徳天皇の病死後に皇位継承をしていますが、奈良の開発に着手するも4〜5年の治世で亡くなったと見られています。そんな天皇の陵墓がこの大きさとはどういうことでしょう。陵墓の規模は天皇の偉大さに必ずしも比例しているわけではない、ということが言えそうです。

<基本情報>
住所:堺市西区石津ヶ丘
アクセス:JR上野芝駅より徒歩15分
開館時間:見学自由

臣下の古墳「孫太夫山古墳」

臣下の古墳「孫太夫山古墳」

写真:小谷 結城

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履中天皇陵古墳の北には、自然や博物館を擁する広大な公園、大仙公園があります。この園内にも小規模ながら古墳がいくつか存在します。ここで見ておきたいのは園内北辺にある孫太夫山(まごだゆうやま)古墳です。全長56メートル。前方後円墳にしては「方」の部分が弱々しく、前方後円墳になりきれていません。こうした形を帆立貝形墳と呼びます。

すぐ西にある竜佐山古墳とともに、その北の仁徳天皇陵古墳に近接していることから仁徳天皇陵古墳の陪塚(大規模な古墳)に隣接し、臣下を葬っていたり、副葬品を埋葬したりする目的で造営された古墳と見られており、とりわけ孫太夫山古墳は仁徳天皇陵古墳の中心線を南にまっすぐ伸ばした延長線上にあることからその関連性の強さを疑われているようです。

臣下の古墳「孫太夫山古墳」

写真:小谷 結城

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そんな孫太夫山古墳の水堀には菖蒲らしき植物が植えられています。古墳が市民に愛されている程が窺えるとでもいいましょうか。いくつもの古墳が身近にあるのは大阪府や岡山県の一部の地域くらいで、およそそうした地域の人々にしか感じることのできない、古代が身近に、しかも近しい関係として存在する感覚というものがあるように思えてきます。よそ者からしてみれば面白くも独特な感覚です。

<基本情報>
住所:堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁
アクセス:JR百舌鳥駅より徒歩5分
開館時間:見学自由

最大の古墳「仁徳天皇陵古墳」

最大の古墳「仁徳天皇陵古墳」

写真:小谷 結城

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大仙公園の北は仁徳天皇陵古墳です。字のごとく、第16代・仁徳天皇の陵墓とされています。仁徳天皇と言えば、高い丘から国を眺めて「国の中に烟発たず、国、皆、貧窮し。故、今より三年に至るまで悉く人民の課税を除け」と命じ、3年間、自らも質素に心掛けたことで民衆が豊かさを取り戻した、という聖帝伝説で知られています。

ただ、この伝説の根拠は記紀からしか確認できず、実のところ信憑性は乏しいと言われています。仁徳天皇の父・第15代・応神天皇は軍事色の強い対外政策で知られるなかなかの剛腕であり、仁徳天皇はそんな応神天皇の外交姿勢を継承している向きがあります。

応神天皇も仁徳天皇も確かに陵墓は巨大であり、少なくとも彼らの陵墓の巨大さは、権力の大きさや剛腕ぶりをそのまま示しているような気がするのです。全長486メートルで水堀も3重に廻らされています。南端中央部から2つ目の堀を越えた先に拝所があるのですが、私たちが行くことができるのは1つ目の堀を越えたところまで。それでも古代のスケールの大きさには驚かされます。

最大の古墳「仁徳天皇陵古墳」

写真:小谷 結城

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仁徳天皇陵古墳の西に沿った道をしばらく北進すると、道が古墳から逸れるように曲がります。それはなぜか。「樋の谷」という谷があったからです。この「樋の谷」は、谷になった地形を利用して濠の排水が行われている場所です。

この樋の谷は現在、親水公園のような具合に整備されています。整備されてしまってこそいますが、こうして古代の土木建築の痕跡を垣間見ることができるのも仁徳天皇陵古墳ならではの興味深いところです。

<基本情報>
住所:堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁
アクセス:JR百舌鳥駅より徒歩5分
開館時間:見学自由

わりに小さい「反正天皇陵古墳」

わりに小さい「反正天皇陵古墳」

写真:小谷 結城

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仁徳天皇陵古墳からさらに北、堺市街中心部に近い南海「堺東」駅を最寄駅とするのは反正天皇陵古墳です。駅の西側に古墳があり、東側、現在の中心市街に古代は堺港がありました。つまり、この地域は古代から要衝地だったわけです。ただし、堺港は土砂が堆積して次第に港としての機能は失ってゆきます。

反正天皇は第18代天皇で早世した履中天皇の弟にあたります。彼の業績も宋への使節派遣を再開したことくらいで、兄・履中天皇同様に短い治世だったと考えられています。ちなみに、履中天皇陵古墳、仁徳天皇陵古墳に比べて小さく全長は148メートルです。

<基本情報>
住所:堺市堺区北三国ヶ丘町2丁1
アクセス:南海堺東駅より徒歩5分
開館時間:見学自由

古墳から分かること

さて、履中天皇陵古墳から北へまっすぐ古墳探訪をしてきました。こうして歩いてみると、古墳群が概ね南北に並んでいることが判ります。

反正天皇陵古墳の章で、堺東駅の西側は港だったと説明しましたが、古代の海岸線が現在よりずっと内陸にあったのは港以南も同様でした。つまり、古墳は海岸線に沿ったすぐそばの台地上に造営されていたのです。その意図は大阪湾を航行する船からの眺望を意識したものと考えられています。すなわち、大和朝廷の権力誇示が目的だったのです。

また、第16代・仁徳天皇の陵墓が最大、第17代・履中天皇が第3位の規模に対し、注目の集まりやすそうな港のすぐそばにあるにもかかわらず第18代・反正天皇の陵墓は小さめ。こうした規模の変遷から陵墓の規模が造営時の国力と大きく関係していたのではないかと推理することもできます。こうして考えを巡らすことで古代が身近に感じられます。百舌鳥古墳群には、そんな魅力が秘められています。

2018年3月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2017/11/09 訪問

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