京都・洛東の桜の名所!真如堂から金戒光明寺の“歴史の道”を歩こう

京都・洛東の桜の名所!真如堂から金戒光明寺の“歴史の道”を歩こう

更新日:2018/03/28 18:38

モノホシ ダンのプロフィール写真 モノホシ ダン 総合旅行業務取扱管理者、総合旅程管理主任者
京都・洛東の紅葉の名所「真如堂」と新選組ゆかりの地「金戒光明寺」は、ともに桜の名所。この2つを結ぶのは、深い歴史に彩られたいわば“歴史の道”ともいえる道です。秋は紅葉狩りを楽しむ観光客で込み合う境内も、春は比較的訪れる人も少なく、ゆっくりと桜を鑑賞するにはおすすめの散策コース。咲き誇る桜と歴史を感じながら、お花見を楽しんでみませんか?

江戸城大奥で知られる「春日局」ゆかりの真如堂の桜

江戸城大奥で知られる「春日局」ゆかりの真如堂の桜

写真:モノホシ ダン

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“散り紅葉”で有名な洛東の紅葉の名所「真如堂」は、正しくは「真正極楽寺」という天台宗の古刹。秘仏の本尊阿弥陀如来立像は、京都六阿弥陀のひとつで、毎年11月15日のみ御開帳されます。境内には約70本の桜があって、紅葉の時期とはまた違った風情を楽しめます。

江戸城大奥で知られる「春日局」ゆかりの真如堂の桜

写真:モノホシ ダン

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真如堂のシンボル・三重塔は、本瓦葺きで高さ約30m。淡い桜越しに眺める姿は絶景です。

江戸城大奥で知られる「春日局」ゆかりの真如堂の桜

写真:モノホシ ダン

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本堂の横には、石柱で大切に囲まれた「たてかわ桜」が。この桜は、徳川三代将軍・家光の乳母である春日局(かすがのつぼね)が、父の斎藤利三(さいとうとしみつ)の菩提を弔うために植えたとされます。

斎藤利三は、明智光秀の重臣で、羽柴秀吉との山崎の合戦で敗れた後、捕縛されて六条河原で斬首。本能寺で晒し首になっていたのを、親交の深かった安土桃山時代を代表する絵師の海北友松(かいほうゆうしょう)が、命がけで奪い取って真如堂に埋葬。一説によると友松は、春日局等の子息を匿い育てたともいわれています。

真如堂の墓地には、斎藤利三と海北友松の墓が、良友の絆の深さを物語るように並んで置かれています。のちに友松の息子の友雪は、江戸城大奥の礎を築いた春日局から褒賞を受けています。咲き誇るたてかわ桜を眺めて、戦国時代に咲いた愛と友情のドラマを感じてみて下さい。

<真如堂の基本情報>
住所:京都市左京区浄土寺真如町82
拝観料(書院・庭園):大人500円/高校生300円/中学生200円/小学生無料
(涅槃図特別公開):1000円(茶菓子付き)※2018年3月1日〜4月1日まで
拝観時間:9:00〜16:00(受付は15:45まで)
電話番号:075(771)0915
アクセス:京都市バス「錦林車庫前」または「真如堂前」から徒歩約8分

時勢に抗い非業に斃れた「会津藩殉難者墓地」

時勢に抗い非業に斃れた「会津藩殉難者墓地」

写真:モノホシ ダン

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真如堂の裏手から、新選組発祥の地である金戒光明寺までに至る道の左手には「会津藩殉難者墓地」が。幕末維新の会津藩の悲劇としては白虎隊が有名ですが、その以前に、京都守護職に任ぜられたことが、悲劇の始まりでした。当時の京都は、幕府の権威低下より、尊皇攘夷派や過激志士らのテロが横行し、無政府状態に。

そこで幕府は、親藩・御家門の中でも武力に優れていた会津藩を京都守護職に任命。立派な城郭構えの造りだった金戒光明寺に約1000名もの会津藩兵が本陣を置き、治安の維持と回復に当たりました。その過程で浪士組を始まりとする非正規部隊の「新選組」も、京都守護職預かりとなり誕生。そのため、金戒光明寺は新選組発祥の地とされているのです。

会津藩は、その後に起きた長州との禁門の変や、薩長との鳥羽伏見の戦いで多くの犠牲者を出し、本陣の金戒光明寺の山上に墓地を整備して埋葬。その数は、京都守護職時代の6ケ年の237名の他、鳥羽伏見の戦いの115名の合計360名近くに及んだのでした。

京都守護職を拝命したとき、藩主の松平容保(まつだいらかたもり)や家老たちは、藩の運命が極まったことを悟り、相擁して泣いたと伝えられます。咲き誇る桜を愛でて、時勢に抗い、犠牲となった会津の人たちを偲びましょう。

時勢に抗い非業に斃れた「会津藩殉難者墓地」

写真:モノホシ ダン

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黒谷墓地を見下ろす丘の上にある高さ約22mの三重塔は、1633年(寛永10年)に徳川二代将軍、徳川秀忠に仕えていた伊丹重好が、秀忠の菩提を弔うため建立。文殊菩薩を本尊としていたため文殊塔とも呼ばれる。なお、運慶作と伝えられ“日本三文殊随一”として信仰を集めた文殊菩薩は、現在、御影堂に遷座されています。

時勢に抗い非業に斃れた「会津藩殉難者墓地」

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三重塔の立つ丘からは、素晴らしい京都市内の眺望が楽しめます。左手に見えている大きな建物は、京都ホテルオークラです。

京都・浄土宗4ケ本山のひとつ「金戒光明寺」の桜

京都・浄土宗4ケ本山のひとつ「金戒光明寺」の桜

写真:モノホシ ダン

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三重塔からは、黒谷墓地の中を下る階段を通って、金戒光明寺に向かいましょう。黒谷墓地には、春日局の墓所もあります。金戒光明寺は、1175年(承安5年)に、浄土宗の開祖・法然上人が比叡山の黒谷を下り、最初に草庵を結んだのが最初とされます。寺名を通称“くろ谷さん”と呼ぶのはそのため。

また知恩院、知恩寺、清浄華院と並んで、京都の浄土宗4ケ本山のひとつに数えられます。写真は、三重塔から黒谷墓地を下る石段の途中から見た、桜に包まれる山門。

京都・浄土宗4ケ本山のひとつ「金戒光明寺」の桜

写真:モノホシ ダン

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三重塔にあった文殊菩薩が祀られている御影堂(大殿)は、1934年(昭和9年)の火災による焼失後、1944年(昭和19年)に再建されたもの。内陣正面に、宗祖法然上人の75歳のときの御影(座像)を安置。昭和時代の代表的な木造建築物といわれています。

手前に見える松は、平安時代の武将・熊谷直実(くまがいなおざね)鎧掛けの松。現在の松は3代目です。平家物語の最も哀切な合戦シーンである「一ノ谷の戦い」で、平家の若き武将だった平敦盛を討った直実。これが人生を考えるきっかけになり、1193年(建久4年)に法然上人を尋ね、方丈裏の池にて鎧を洗い、この松の木に鎧をかけて出家、蓮生と号しました。

直実の供養塔は、法然上人の御廟所前に、平敦盛の供養塔と向かい合わせに建てられています。直実ゆかりの鎧掛けの松で、諸行無常を感じてみて下さい。

京都・浄土宗4ケ本山のひとつ「金戒光明寺」の桜

写真:モノホシ ダン

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御影堂から山門へと下る石段から見る、桜と御影堂のアングルもおすすめ。御影堂前にある茶屋では、名物の「みたらし団子」を頂くのもいいでしょう。

真如堂から金戒光明寺は壮大な歴史ロマンを感じさせるルート

真如堂から金戒光明寺は壮大な歴史ロマンを感じさせるルート

写真:モノホシ ダン

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金戒光明寺の威風堂々たる山門は、1400年頃の創建で、応仁の乱で焼失後、徳川幕府の命で、1860年(萬延元年)に再建されたもの。高さは約23mで、普段は非公開の楼上からは京都市内を一望できます。京都守護職として会津藩がここに本拠を構えたのも、楼上からの市中監視が目的のひとつでした。

楼上の勅額「浄土真宗最初門」は、後小松天皇のご辰筆。意味は、宗派名を表すものではなく、元祖の法然上人が、最初に浄土の教えの真実を広めた念仏発祥の地ということ。いわゆる真実と事実は違うということですね。

<金戒光明寺の基本情報>
住所:京都市左京区黒谷町121
電話番号:075-771-2204
拝観時間:9:00〜16:00
拝観料:志納
アクセス:JR京都駅から市バス5番 東天王町下車 徒歩約15分 市バス100番 岡崎町下車 徒歩約10分 地下鉄東西線蹴上駅から徒歩約30分 車利用の場合は、名神高速道路京都南ICから約35分

平安時代から戦国時代、そして幕末に至るいわば“歴史の道”

このように、真如堂から黒谷墓地を経由して、金戒光明寺に通じるルートは、桜の美しさもさることながら、平安時代から戦国時代、そして幕末に至る壮大なドラマを体感できるいわば“歴史の道”でもあります。咲き誇る桜を楽しみながら、それぞれの時代に思いを馳せてみませんか。

2018年3月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/04/05 訪問

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