突然ですがみなさん、日立の大煙突ってご存じですか?日立市内の高い建物、あるいはかみね公園頂上展望台から見える日立鉱山大雄院製錬所跡のどこかレトロな煙突、それが今回ご紹介する大煙突です。
写真:泉 よしか
地図を見る"大煙突"と呼ぶには少し低すぎるのではないかと思う人もいるかもしれませんが、実はこれは折れた後の姿。もともとはこのおよそ3倍の高さがあったのです。
新田次郎の小説、そして2018年春から撮影が始まり秋に完成予定の映画『ある町の高い煙突』のモデルともなったこの煙突は、日立のみならず、日本の産業史に残る偉業を成し遂げたといっても良いでしょう。
ぜひ多く方に何故日立に当時世界で最も背の高い煙突が立てられたのか、またその煙突は何を成し遂げたのかを知って、当地を訪れていただけたらと思います。
<日立の大煙突の基本情報>
住所:日立市宮田町
アクセス:県道36号線(大雄院通り)を海側から日鉱記念館の方に向かって走り、「白銀町歩道橋」付近で右側に見えます。内部見学はできません。
写真:泉 よしか
地図を見る日立の大煙突について知りたければ、JXグループの日鉱記念館へ行ってみましょう。ここは昭和60年に日立鉱山跡地に建てられた記念館で、JX金属グループの歴史や日立鉱山の発展に関する資料が展示されています。
日立市と聞くと、日立製作所の企業城下町という印象があるかもしれませんが、現JX金属グループは日立製作所、日産自動車、ニッスイ(日本水産)といった誰もがよく知っている企業の母体となった存在。それらの大企業の始まりは、この日立市の日立鉱山にあるのです。
写真:泉 よしか
地図を見る胸像の男性は日立鉱山こと現JX金属グループの創始者・久原房之助。彼こそが当時赤沢銅山と呼ばれていた日立の小さな銅山を買収し、一躍、愛媛の別子や栃木の足尾と並ぶ近代的大鉱山に育て上げた人物で、くだんの大煙突を提案し、社運をかけて建設に踏み切った人物でもあります。
この時代、日本のあちこちで近代化のひずみを受けて多くの公害が深刻化していました。そんな中、特筆すべきは、久原房之助と同社の人々は、ただ事業に邁進するだけでなく、地域の人々との共存を図ったことです。
鉱山の発展とともに精製所から排出する亜硫酸ガスによる煙害が激しくなり、近隣の山林や農作物の被害が激しくなる中、日立鉱山は神峰煙道(百足煙道)や、だるま煙突などを建設します。
しかしいっこうに被害はやみません。空気で希釈して排出すれば良いという政府の命令で作られただるま煙突などは、むしろ被害を激化させたことにより阿呆煙突と呼ばれる有様。
今も、折れて短くなった大煙突の下に、うねうねと蛇行する神峰煙道や、中腹のずんぐりとしただるま煙突がそのまま残されているのを見ることができます。
久原は、当時世界一の高さとなる大煙突の建設が、効果を挙げることを確信していました。結果は大成功!鉱山の近隣の煙害は大幅に改善されました。多くの公害が企業と住民の間に遺恨を残す激しい対立を繰り返したのに対し、ここ日立では手を取り合うことができたのです。
写真:泉 よしか
地図を見るもう少し日鉱記念館を見ていきましょう。
この写真は日鉱記念館に展示されている日立鉱山の鉱床と坑道の透視図です。最も深いところで950m、坑道の総延長は700kmと日立から大阪まで至るほどの長さがあります。
当時の日立は鉱山に従事する人々とその家族、及びそれらの人々の生活を支える産業に従事する人々で大変賑わっていました。明治末期には1万数千人もの人々がこの鉱山周辺で暮らしていたのです。
写真:泉 よしか
地図を見る日鉱記念館本館の地下には模擬坑道も。当時の坑道内部を体感してみてください。
写真:泉 よしか
地図を見るそうして煙害を乗り越え、日立の発展に、否、日本の産業に大きく寄与し、シンボルとなった日立の大煙突ですが、役目を終えて後、平成5年2月19日朝、突然倒壊してしまいます。
建設当時は世界一の高さを誇った155.7mの煙突は、今は約1/3の54mに。建設中及び稼働していた当時の写真は日鉱記念館2階の日立の大煙突展示エリアで見ることができます。大煙突の写真パネルが展示されたこのコーナーは半円形をしていて、本物の大煙突の幅も体感できるようになっています。
<日鉱記念館の基本情報>
住所:日立市宮田町3585
電話番号:0294-21-8411
入館料:無料
アクセス:JR常磐線日立駅(中央口)から日立電鉄バス東河内行き「日鉱記念館前」停留所すぐ
突然ですがみなさん、日立の桜についてご存じですか?JR日立駅前から伸びる平和通りを始め、日立市内には数多くの桜の木がありますが、実はこの桜の木も日立鉱山の煙害と無関係ではないのです。
日立鉱山は世界一高い煙突の建設だけでなく、煙害対策のための気象観測所の設置や煙害に強い樹木の研究も行いました。そのときに選ばれた樹木の一つがオオシマザクラで、大正4年から植林を開始し、昭和12年までの間に72万本もの苗が周辺地域の希望者に無償配布されました。
さらにオオシマザクラにソメイヨシノを接ぎ木して、大正6年頃には道路や鉱山電車線路沿いにも。今こうして春になるたび日立を淡い色で染める桜の木は、大煙突とともに鉱山と人々が手を取り合って環境破壊を乗り越えてきた証なのです。
取材協力:日立市
2018年4月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/3/19更新)
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