下関・巌流島(船島)は宮本武蔵と佐々木小次郎決闘地!戦いの真実とは?

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下関・巌流島(船島)は宮本武蔵と佐々木小次郎決闘地!戦いの真実とは?

下関・巌流島(船島)は宮本武蔵と佐々木小次郎決闘地!戦いの真実とは?

更新日:2018/06/18 11:32

大里 康正のプロフィール写真 大里 康正 旅する写真家、タイと台湾に詳しい旅作家

歴史好きなら宮本武蔵の名前を何度も目にしているはずですが、剣豪・剣聖とまで言われる武蔵の最も有名な決闘は佐々木小次郎との巌流島の戦いでは。

瀬戸内海の関門海峡にある巌流島は山口県下関市に属する小さな島ですが、世に知られている巌流島の戦いはあくまでも小説の話であり、諸説あるのが真相なのです。

他にも豊臣秀吉や坂本龍馬も関係する話を含め、あなたなりの巌流島を、観光することで体感してみましょう。

巌流島に向かう

巌流島に向かう

写真:大里 康正

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巌流島に向かうには連絡船を利用する必要があります。観光での移動は福岡県側の門司港駅を利用するととても便利。駅から巌流島連絡船の港は徒歩3分程度であり、また周囲には様々なお土産品、飲食店があることから門司港を利用することをお勧めします。

乗船券は、自分の観光に適したものを購入して下さい。乗船券の種類により対岸の山口県側に移動することも可能となります。再び門司港駅を利用するのであれば、トライアングル1日フリーパスを使うと便利です。

巌流島に向かう

写真:大里 康正

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巌流島までは片道約10分となります。決闘する宮本武蔵、佐々木小次郎も同じように船で渡ったのです。二人の思いはいかに?

<基本情報>
住所:福岡県北九州市門司区西海岸1-4-1
電話:093-331-0222(関門汽船株式会社 門司営業所)
アクセス:門司港駅から徒歩3分

巌流島について

巌流島について

写真:大里 康正

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巌流島は正式名称ではありません。現在の住所は下関市大字彦島字船島となり、船島という地名からも分かるように正式名称は「船島」です。名前の由来はもともとの島の形が船型であったことから。その後、現在の姿になるまで何度も拡張された経緯があるのです。そして巌流島という呼び方が定着していくことになります。

では、巌流とはどこから来たのでしょうか。これは佐々木小次郎が巌流と称したとされるからです。他にも岩流、岸流、岸柳、岩龍と様々ありますが、決闘の地という意味では巌流が一番の迫力と言えます。

巌流島について

写真:大里 康正

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宮本武蔵と佐々木小次郎による「巌流島の戦い」があまりにも有名過ぎるので、他にも歴史があることはあまり知られていません。付近は船が通る際の難所であり、豊臣秀吉も座礁に遭遇しています。

昭和の戦争中は軍用地となり厳しい統制が行われ、一般人の立ち入りが出来なかった期間もあったのです。その後は漁民を中心に島に住む人が出てきますが、現在は無人島となっており、武蔵と小次郎が戦った雰囲気からは想像できない穏やかな観光の島と言えるでしょう。

坂本龍馬が花火!

坂本龍馬が花火!

写真:大里 康正

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巌流島には坂本龍馬に関するエピソードがあります。慶応3年(1867年)島に坂本龍馬が妻のお龍とともに上陸し、花火をして遊んだというのです。これは後年、お龍が語ったことで知られることとなりましたが、具体的に島のどの辺りだったのかは分かっていません。

なお、龍馬が暗殺されるのは同年11月15日のこと。短い夫婦生活の数少ない楽しみだったことになり、島を歩く際にはそのような出来事も思い出してみましょう。

宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦い

宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦い

写真:大里 康正

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吉川英治の影響で宮本武蔵は一躍、知名度を全国区としましたが小説が新聞連載されたのは1935年のこと。しかしながらこれは宮本武蔵という実在した人物を取り上げたあくまでも小説、フィクションであり、その連載は4年間続きました。今でも版を重ねるほどの人気ぶりですが、当時から既に有名になり過ぎていてそれが様々な影響を与えたのです。

後年吉川英治自身が「作家の創作と史実がごちゃごちゃにされることへの危機感がある」と言葉を残すほど。それでも宮本武蔵と佐々木小次郎がこの島で戦ったことは記録からも確かです。

ところが・・・、肝心の年月や具体的な戦いがどうであったのかについて、実は分かっていません。当時のことをまとめた記録がいずれも1700年代に入ってからのもので、だいぶ後のこと。さらに複数の記録にずれも生じています。

「武公伝」は宝暦5年(1755年)に肥後藩松井家家臣の豊田正剛が様々な資料を集めて編纂したもの。それを孫にあたる肥後八代城主松井家の家臣・豊田景英が再編纂したものが武蔵の伝記物として有名な「二天記」です。安永5年(1776年)のことですが、いずれにしても一次資料ではなく幾人もの人を介しており、さらに武蔵の死後1世紀以上も過ぎています。

宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦い

写真:大里 康正

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それでも、巌流島の戦いは慶長17年4月13日(1612年5月13日)とされます。前出の「二天記」の中に、小次郎が鞘を捨てたという記載が出てきますが、とても有名な場面であり、そこから様々な創作の世界が広がっています。

武蔵がわざと遅延して来て小次郎を苛立たせ、小次郎が「遅いぞ武蔵、臆したか!」と叫びながら物干し竿と呼ばれた長い刀を抜き、鞘を投げ捨てます。武蔵が即座に「小次郎、破れたり!勝つ者がなぜ鞘を捨てるか!」と切り返したとなるのです。

体系だってはいないものの、武蔵の養子であった宮本伊織によると、長尺の刀を使った小次郎に対し、武蔵は普通に到着し二人は決闘。木刀を使った武蔵が一撃で小次郎を倒したとなっています。しかしながらあくまでも武蔵の養子がまとめたもの。資料としてどこまで信用できるかということなのです。

他の物として、決闘の立ち合いを務めたという沼田家の沼田家記があります。ある意味、これの信用度は高いと考える人は多いのですが、そうなると戦いの様相はまったく変わるのです。

武蔵には弟子4人がおり、対決では1対1で戦い武蔵は勝利するも小次郎はまだ生きており、後から弟子が撲殺したとなります。その後小次郎の弟子が武蔵を執拗に追いかけたとの話まで。しかしながら本当に弟子が手を出すものなのか、また後に小次郎の弟子が追いかけた話となれば、後の記載となり時間に幅が出てしまいます。どこまでが真実なのか?

それぞれの立場で色々と記載があり、真相がどうであったのかを知るには難しい状態なのです。

そして更に驚くべきことに、佐々木小次郎の名字が佐々木というのも後の時代のもの。また、創作の世界では美少年となっていますが、年齢は40代、60代、はたまた70代であったという話まであるので、実像は分かっていないのです。

宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦い

写真:大里 康正

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巌流島を歩くと、二人の銅像がある場所には横文字碑文もありますが、武蔵は海外でも広く知られ、島は外国人にも人気があります。

過去の人たちの立場と資料のばらつき、江戸時代の講談、創作によって真実が見えない巌流島の戦いですが、それでも武蔵と小次郎により歴史に名を残す巌流島。

訪れてみる価値は大であり、この機会にぜひとも島に上陸し、自分ならではの巌流島を体験してみてはいかがでしょうか。

巌流島の戦い基本情報

住所:山口県下関市大字彦島字船島648番地
電話:083-231-1350(下関市観光政策課)
アクセス:門司港、下関港から連絡船

2018年6月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/04/19 訪問

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