沖縄県平和記念公園内で見晴らしの良い海沿いにある「平和の火」は、沖縄戦で最初に米軍が上陸した座間味村阿嘉島からの火と、原爆が投下された広島県広島市の「平和の灯」、そして同じく原爆が投下された長崎県長崎市の「誓いの火」という三か所の火を合わせ、1991年から灯し続けられているものです。
その意味を知り、風に揺れる平和の火を眺めてみて下さい。
海の反対側に広がるのが「平和の礎」。ここに沖縄戦での戦没者の名前が刻まれており、慰霊の日に限らず多くの人が訪れて、戦争で亡くなった人に思いを馳せるのです。
平和の火から海側は見晴らしが良く、そこに広がる沖縄の海。かつてこの海面が見えなくなるほどの米軍艦隊で埋め尽くされたとは、想像が難しいのでは。
海からの砲撃、また那覇市側から攻めて来る米軍とに挟み撃ちにされた沖縄の人たちは、南下する日本軍とともに戦争に巻き込まれ、多くが犠牲となったのです。
<基本情報>
住所:沖縄県糸満市字摩文仁444番地
電話:098-997-2765
アクセス:那覇(バスターミナル)→糸満(バスターミナル)約45分
沖縄戦を深く知るために、沖縄県平和祈念資料館に入館してみましょう。こちらでは多くの資料と生々しい写真、そして映像を使っており、沖縄戦がどれだけ悲惨であったかを知ることが出来ます。残された数多くの証言にもぜひ、目を通してみて下さい。
資料館には、エレベーターを使って行くことが出来る展望所があります。周囲をぐるりと見渡すことが出来るので、戦争の悲惨さだけではなく、沖縄の海や広がる緑を眺めてみて下さい。
<基本情報>
住所:沖縄県糸満市摩文仁614-1
電話:098-997-3844
摩文仁の丘には様々な県、団体、組織が慰霊塔(慰霊碑)を建立した場所があります。付近全体が沖縄戦跡国定公園となり、戦地跡としては国内唯一の国定公園です。制定は沖縄の本土復帰の年となる1972年で、広さは81.3平方キロメートルあり海域を含むのです。
こちらにある多くの慰霊塔は、戦後、特に1960年代に入り、沖縄に行くことが比較的容易になった頃から、慰霊碑の建立を求める声が大きくなり徐々に作られたのです。
また慰霊塔は日本だけではありません。平和祈念資料館近くには韓国人慰霊塔、そして多くの慰霊塔(慰霊碑)が並ぶ場所には台湾之塔があり、戦争がいかに多くの犠牲を強いることになったかが分かるのではないでしょうか。
戦争終結の意味を持つ場所が「黎明の塔」となります。方角として多くの慰霊塔(慰霊碑)がある霊域を通り、鹿児島県の(安らかに)、しずたまの碑、樺太の碑方向に抜けて下さい。
黎明の塔は小高い丘に建っており、この地は第32軍司令官牛島満大将(当時は中将)や長参謀長が自決をした付近となります。司令官の自決により組織的戦争が終結。それが1945年6月23日で、毎年6月23日が沖縄における慰霊の日となっているのです。
牛島司令官の自決は6月22日であるという話もありますが、沖縄県では23日を採用しています。ところでなぜ、沖縄戦の組織的終結という表現をするかですが、司令官の自決を知らない軍人たちが、なおも抗戦を続けたからなのです。戦争全体が終わるのはまだ時間を要しました。
黎明の塔では、塔の後ろ側にも回ってみましょう。なぜならその形が、午前4時30分に自決した牛島満司令官の後ろ姿であると言われているからです。
黎明の塔の手前の階段を下って行くと、左側に見えるのが第32軍司令部壕跡となります。
第32軍司令部はもともと、那覇市の首里城地下にありました。しかし米軍の侵攻によって摩文仁に南下したのです。これは本土決戦前の時間稼ぎであったという指摘もあります。ところが、このことが多くの住民を巻き込むことにもなりました。なぜなら惨禍を逃れるための住民が南に下っており、旧日本軍を狙った米軍の攻撃がより一層激しくなることで、熾烈な状態となったのです。
数多くのガマ(自然洞窟)や墓に、多くの住民が避難しましたがそこに日本軍人が入り、住民や泣く子供を追い出した、泣きやまない赤ん坊を抱く母親に子供を殺すよう強要した等の証言が数多く残っています。
<基本情報>
住所:沖縄県糸満市字摩文仁444番地
電話:098-997-2765
アクセス:那覇(バスターミナル)→糸満(バスターミナル)約45分
第32軍司令部壕から右側に進み、階段を下ると「沖縄師範健児の塔」に行くことが出来ます。雨の日は滑りやすいので、足元にはくれぐれも注意をして下さい。
階段を下った場所の左側に見えて来る場所は当時、食糧を隠していた場所となります。しかしながら樹木が多い現在とは違って、当時は既に周囲は焼き払われており、海上の米軍からはほぼ丸見えに近い状態でした。
それにも関わらず、第32軍司令部壕とこの場所を何度も行き来させられた男子学生たちがいたのです。そして多くの子供たちがこの付近で戦死しています。
男子学生とは、沖縄師範学校男子部の生徒たちで編成された鉄血勤皇隊であり、その年齢は13歳から19歳で食糧輸送だけではなく伝令等にも使われた生徒たちです。
どれだけ凄惨であったかを示す話しとして、伝令は1度に3人が任命されました。なぜなら途中で米軍により殺されてしまうことを織り込んでおり、誰かが役目を果たせるようにということだったのです。なお、彼らは首里城にあった第32軍司令部と行動を共にしていました。
戦争終結の頃、多くの学生が塔の裏手で自決しています。そして鉄血勤皇隊は教職員を含め、319人が犠牲となっています。
ひめゆりの塔はかなり有名ですが、戦争では他にもこのように犠牲となった多くの人たちがいたことを忘れないためにも、「沖縄師範健児の塔」には足を運んでおきましょう。
<基本情報>
住所:沖縄県糸満市摩文仁548
アクセス:「黎明の塔」から徒歩約5分
戦争があった時代から時流れ、戦争体験者は高齢化、また多くの人が沖縄戦の悲劇を忘れている、あるいは知らない世代が増えています。しかしながら過去に起きた現実を知り、今後に繋げることが大事なことと言えます。
大激戦地であった沖縄平和記念公園と沖縄戦跡国定公園を含む摩文仁の丘一帯。そこから歩いて行ける「沖縄師範健児の塔」を巡り、辛い過去もある沖縄を知る旅をしてみてはいかがでしょうか。
2018年5月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2025/2/9更新)
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